第二百三十八段② 今の帝が、まだ皇太子でいらっしゃった頃
一つ
今の帝が、まだ皇太子でいらっしゃった頃、万里小路殿の屋敷をお住まいにされてて、そのお屋敷の堀川大納言がご出仕なさっている詰所へ、用があって私、参ったんだけど、論語の四、五、六の巻をお広げになって「ただ今、皇太子殿下が『紫の朱奪うことを憎む』という文をご覧になりたいってことで、論語をご覧になってられるんだが、見つけられずにいらっしゃるんだよね。『もっとよくリサーチしなさい』ってことなんで、探してるんだ」とおっしゃったんで、「九の巻のどこそこのあたりにございます」って申したら、「うわ、うれしっ!」って、それを持って殿下のところに参上なさったんだよ
これくらいのことは、子どもでも普通にできることなんだけど、昔の人はちょっとのことでも、すごく自慢してるね
後鳥羽院が「歌に『袖』と『袂』と、一首のうちに(同じ意味の言葉が二つ)あるのは悪いことだろうか」と(藤原)定家卿にご質問なさったのに「『秋の野の 草の袂か 花薄 穂に出でて招く 袖と見ゆらん』(秋の野の草の袂なのだろうか?花薄は。穂が出ているその様子は、人恋しさに招いている袖のようだ)とございますので、何の問題がございましょうか?(問題ないですよ)」と申されたことも、「タイミングよく根拠になる歌を覚えていたのね。歌の道の神様のおかげ。幸運でした」なんて、仰々しく記録されているんです
九条相国伊通(藤原伊通)公の款状にも、どうってことない項目を書き記して自慢なさってるよ
----------訳者の戯言---------
堀川大納言というのは堀川具親のことだそうです。養父は堀川具守とのこと。
具親の父は若くして亡くなったらしく、祖父だった具守が養父になったらしいです。
実は兼好法師が出家前に家司として仕えていたのが堀川具守でした。
堀川家の人々はこれまでにも何度か出てきましたね。
第九十九段で検非違使庁の古い唐櫃を変えさせようとしたのは堀川具守の父
第百七段で女子たちに「無難ね」と褒められたのは堀川具守本人
第百六十二段で池の鳥を虐殺した僧を捕らえて罰した長官は具守の弟
第二百十八段で狐が噛みついたスタッフがいたのは堀川家のお屋敷
「款状(かじょう/かんじょう)」っていうのは、官位や恩賞なんかを望んで書いたり、訴訟の趣旨を記述したりした、いわゆる「嘆願書」のことだそうです。
自分だけじゃなく、昔の人も結構自慢してるんだよね。
と、まだ言い訳してるんですか??
はいはい、わかったわかった。
第二百三十八段③に続く。
【原文】
一、當代いまだ坊におはしまししころ、萬里小路殿御所なりしに、堀河大納言殿伺候し給ひし御曹司へ、用ありて參りたりしに、論語の四・五・六の卷をくりひろげ給ひて、「たゞ今御所にて、紫の朱うばふ事を惡むといふ文を、御覽ぜられたき事ありて、御本を御覽ずれども、御覽じ出されぬなり。『なほよくひき見よと』仰せ事にて、求むるなり」と仰せらるゝに、「九の卷のそこそこの程に侍る」と申したりしかば、「あなうれし」とて、もてまゐらせ給ひき。かほどの事は、兒どもも常のことなれど、昔の人は、いさゝかの事をもいみじく自讚したるなり。後鳥羽院の御歌に、「袖と袂と一首の中にあしかりなんや」と、定家卿に尋ね仰せられたるに、
秋の野の草のたもとか花すゝき ほに出でて招く袖と見ゆらむ
と侍れば、何事かさふらふべきと申されたることも、「時にあたりて本歌を覺悟す。道の冥加なり。高運なり」など、ことごとしく記しおかれ侍るなり。九條相國伊通公の款状にも、ことなる事なき題目をも書きのせて、自讚せられたり。
検:第238段 第238段 御随身近友が自讃とて