徒然草 現代語訳 吉田兼好

徒然草を現代語訳したり考えたりしてみる

吉田兼好の徒然草を現代の言葉で書いたり、読んで思ったことを書いています。誤訳や解釈の間違いがありましたらぜひご指摘ください。(序段---冒頭文から順番に書いています。検索窓に、第〇〇段、またはキーワードを入力していただけばブログ内検索していただけると思います)

第百七十四段 小鷹狩り向きの犬を、大鷹狩りに使ってしまったら

小鷹狩り向きの犬を、大鷹狩りに使ってしまったら、小鷹狩りには使えねーってことになるって言います
大を選んで小を捨てるっていう理屈は、まったくその通りなんだよね
人にはやることがたくさんあって、そんな中でも、仏道に励むことを楽しみにするのより味わい深いことはなくって
これこそ、本当に大事なこと!
一度、仏道に目覚めて、これを志そうっていう人は、他のどの仕事をやめないことってあるかな?(どれもやめるでしょ)
何をやるっていうの?(やらないよな)
いくら愚かな人って言っても、賢い犬の心には劣らないだろうからね


----------訳者の戯言---------

最後の最後で犬をdisる展開。

結局のところ、出家サイコー。

鷹狩りというのは、「小鷹狩り」と「大鷹狩り」の二種類に分けられるらしいです。
ほー知りませんでしたな。
小鷹狩りは小さめの鷹を使ってウズラ、スズメ、ひばりなどの小鳥を獲り、大鷹狩りは大型の鷹でキジ、山鳥、鴨、ウサギなど獲るそうです。
そういえば第六十六段でキジを鷹狩りで獲った時に梅の枝に何かする場合の話がありましたっけ。

しかし、鷹狩りに犬を使うのか?
使うらしいんですねー、これが。それさえも知らなかった私。
みんな普通に知ってはることですか?
私のイメージでは、鷹を飛ばしたら、鳥とかウサギとかを捕まえて、その獲物を持って飛んで戻ってくる。
で、餌をやってヨシヨシすると。

しかし実際の鷹狩りは、まず隠れている獲物を犬が追い出し、飛び立った鷹がその獲物を捕らえるというチームプレー。
獲物を捕った鷹は地面にその獲物を下ろして、いったん小休止するらしいんですけど、そこに馬で鷹匠が駆け付け、餌をやって獲物と交換、というのがざっくりとした手順らしい。
もちろん、このほか細かくいろいろな作戦があるらしい、です。
ですから、所謂猟犬と同じで、鷹狩りに犬は必要ということになりますね。


【原文】

小鷹によき犬、大鷹に使ひぬれば、小鷹に惡くなるといふ。大に就き小を捨つる理、まことにしかなり。人事多かる中に、道を樂しむより氣味深きはなし。これ、實の大事なり。一たび道を聞きて、これに志さん人、いづれの業かすたれざらん。何事をか營まん。愚かなる人といふとも、賢き犬の心に劣らんや。


検:第174段 第174段 小鷹によき犬、大鷹に使ひぬれば

第百七十三段 小野小町のことは

小野小町(825年頃~900年頃。生没年不詳)のことは、全然解明されてないんよ
衰えた様子は「玉造」という書物に書いてあるが
この書物は、(三善)清行(847~919)が書いたという説があるけど、弘法大師の著作の目録にもこれが入ってんのよね
けど、弘法大師は承和のはじめ(承和2年=835)にお亡くなりになったわけで
小野小町の全盛期ってその後のことちゃうかな、やっぱりクリアにはならんよなー


----------訳者の戯言---------

小野小町が9世紀の人だということはなんとなーくわかってるんですが、生没年も、どういう人だったのかも詳細不明なんですね。
今も、です。

「玉造」というのは「玉造小町壮衰書」という書物のことだそうで、実は作者不詳なのです。
落ちぶれた美女のありさまを描いたものではあるようなんですが、かつての美女がイコール小野小町のことかも、実ははっきりしないようですね。


【原文】

小野小町がこと、極めて定かならず。衰へたるさまは、玉造といふ文に見えたり。この文、清行が書けりといふ説あれど、高野大師の御作の目録に入れり。大師は承和のはじめにかくれ給へり。小町が盛りなる事、その後のことにや、なほ覚束なし。


検:第173段 第173段 小野小町がこと、極めて定かならず 小野小町が事、きはめてさだかならず 小野小町が事、極めて定かならず 小野小町が事、きはめて定かならず 小野小町がこと、きはめてさだかならず

第百七十二段 若い時は血気があり余ってて

若い時は血気があり余ってて、心が物にいちいち動揺したり、情欲も多いのさ
身を危険にさらして砕け散ってしまいがちなのは、球を転がすのにも似てるよね
派手派手しくてきれいなのが好きで、お金をさんざんを使って、かと思ってたら、それを捨てて(出家して)苔で作ったような粗末な衣服に身をやつし、はたまた、勇ましい気分が盛り上がっちゃって、好戦的になったり、恥じ入ったり、うらやんだり、好みだって日々定まらない
色欲に走ったり、情愛に溺れたり、思い切った行動で、将来も台無しにしたり、命を失ってもいいとさえ願い、ずっと長く生きながらえようとも考えず、好き勝手にして、後々まで世間の語り草になっちゃう
そうやって身の振り方を誤るっていうのは、若い時ならではの行動パターンですよ

老人は、精神が衰え、淡泊でおおざっぱで、気持ちが動揺することも無いね
心は自然と穏やかなので、無駄なことはしない
自分で自分の身体を気遣ってるから心配ごともないし、人には迷惑をかけないようにと考えてる
老いての知恵が若い時の知恵に勝ってるっていうのは、若者がルックス的に老人に勝ってるのと同じなんだよね


----------訳者の戯言---------

若い時は誰しもいろいろやらかしてしまうものです。


【原文】

若き時は、血氣 内にあまり、心、物に動きて、情欲おほし。身を危めて碎け易きこと、珠を走らしむるに似たり。美麗を好みて宝を費し、これを捨てて苔の袂にやつれ、勇める心盛りにして、物と爭ひ、心に恥ぢ羨み、好む所日々に定まらず。色に耽り情にめで、行ひを潔くして百年の身を誤り、命を失へたるためし願はしくして、身の全く久しからんことをば思はず。好けるかたに心ひきて、ながき世語りともなる。身を誤つことは、若き時のしわざなり。

老いぬる人は、精神衰へ、淡くおろそかにして、感じ動くところなし。心おのづから靜かなれば、無益のわざをなさず。身を助けて愁へなく、人の煩ひなからむことを思ふ。老いて智の若き時にまされること、若くして、貌(かたち)の老いたるにまされるが如し。


検:第172段 第172段 若き時は、血気うちにあまり 若き時は、血気内にあまり

第百七十一段 「貝覆い」をする人が

「貝覆い」をする人が、自分の前にある貝を差し置いて、よそを見渡して、人の袖の陰や膝の下まで目を配ってたら、その間に、自分の前にあるのを人に覆われてしまうのだよ
よく覆う人は、遠くの貝まで無理やり取ろうとしてるとは見えず、近いものばかり覆うようだけど、結果として多く覆うんだ
碁盤の隅に碁石を置いてはじくのにも、向こう側にある石を見定めてはじくと、当たらない
自分の手元をよく見て、手元にある聖目をまっすぐにはじけば、置いた石に必ず当たるんだよね

あらゆる事は、テリトリー外に向かって成果を求めてはならない
ただ自分の手元を正しくすべきなんだよ
(中国・宋の時代の政治家)清献公の言葉にも「まず今、善い行いをして、これから先の道のりを人に尋ねてはならない」とありました
世を治める道もこんなもんでありましょう
内政を慎重にしないで、軽んじて、やりたい放題にして乱れてると、遠国が反逆して攻めてきた時になって、ようやくはじめて対策を講じることになるんだ(遅いよ!)
「寒い風にあたり、湿気の多い所で寝てて、病気が治るよう神仏に訴えるのは、愚かな人である」と医学書に書いてあるとおりだよ
目の前にいる人の心配ごとを無くし、恵みを施し、道を正しく進めば、その感化が遠くまで流布することって、これ案外理解されてないんだね
(中国・夏の帝)禹が進軍して三苗を制圧したのも、軍勢を引き返して、国内で良い政治をしたのには勝らなかったのだよ


----------訳者の戯言---------

「貝覆い」というのは、神経衰弱みたいな感じのゲームだそうで、「貝合わせ」と言ったりもするやつです。

しかし、実際には「貝合わせ」という名称は、後に混同して誤って言われたものだそうで元々は別の遊戯でした、と。
私はその神経衰弱みたいなのが「貝合わせ」だとずっと思っていましたから、間違って覚えていたわけですね。
この段で出てきたのは、もちろん本来の「貝覆い」です。
今はもう廃れてしまったということは、ゲームとしてはあまりおもしろくなかったんでしょうね。

聖目というのは碁盤に付けられてる目印で、9個のポイントです。

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聖目は、現代では「星目」「星」などと言うのが一般的で、「井目」とも表記します。
「星」の中でも特に真ん中の点は「天元」と言うそうです。

さて、禹(う)という人ですが、ネットでもいろいろ調べてみました。
中国の夏という国の創始者だったということです。紀元前1900年くらいの人。
なんせ、そんなに昔のことですから、伝説というか神話みたいな話ですけどね。

で、「三苗」っていうのも、中国神話に登場する四罪と呼ばれる、四人の悪神の一人なんですが、実際には反抗的な部族、またはそれを率いた悪神と考えられてるようです。
何か、集団なのか悪神単体なのかもよくわからない話。

で、禹が軍を遣ってもなかなか三苗をやっつけられなかったんですけど、いったん退いて、国内をより安定させるべく良い政治を行ったら、三苗が簡単に降伏したらしい。
ということなんですが、そういう故事がなかなか見つからない。
いや、ネットで調べただけなんですけどね。

と、まあ、なんとなくモヤモヤした感じではありますが、まず自分の近く、周辺からちゃんとしようよ、と言いたいのはわかりました。


【原文】

貝をおほふ人の、わが前なるをばおきて、よそを見渡して、人の袖の陰、膝の下まで目をくばる間に、前なるをば人に掩はれぬ。よく掩ふ人は、よそまでわりなく取るとは見えずして、近きばかりを掩ふやうなれど、多く掩ふなり。棊盤のすみに石を立てて彈くに、むかひなる石をまもりて彈くは、当たらず。わが手もとをよく見て、こゝなる聖目(ひじりめ)をすぐに彈けば、立てたる石必ず当たる。

萬のこと、外に向きて求むべからず。たゞここもとを正しくすべし。清献公が言葉に、「好事を行じて、前程を問ふことなかれ」といへり。世を保たむ道もかくや侍らん。内を愼まず、輕く、ほしきまゝにしてみだりなれば、遠國必ずそむく時、始めて謀をもとむ。「風に當り、濕に臥して、病を神靈に訴ふるは、愚かなる人なり」と醫書にいへるが如し。目の前なる人の愁へをやめ、惠みを施し、道を正しくせば、その化 遠く流れむことを知らざるなり。禹の行きて三苗を征せしも、師をかへして、徳を布くには如かざりき。


検:第171段 第171段 貝をおほふ人の、我がまへなるをばおきて 貝をおほふ人の、わが前なるをばおきて 貝をおほふ人の、我が前なるをばおきて 貝をおほふ人の、我が前なるをばおきて

第百七十段 それほどの用事もないのに人のところに行くのは

それほどの用事もないのに人のところに行くのは、よくないことだよ
用があって行っても、その用事がすんだら、すぐに帰ったほうがいいね
長居するのは、すごく見苦しい

人と向き合ってると、言葉数が多くなって、身体も疲れるし、気分も落ち着かず、いろんなことを犠牲にして無駄な時間を過ごすことにもなるんで、お互いにとってメリットなし
不愉快そうに言うのもよくはないけどね
気乗りのしない時は、あえてそれをストレートに言ったらいいんだ
気の合う人が、ヒマでなーんもやることがない時に、「もうちょっと、今日はのんびりしときましょうか」なんて言ってくれるのは、この限りではないだろうけど
阮籍の青い目」は誰にだってあるはずだろうさ
(中国・晋代の賢人、阮籍が気に入った人には青い目を向け、気に入らない人には白目を向けたという故事による。白眼視の語源にもなっている、らしい)

特に用事もないのに人が来て、のんびりおしゃべりして帰っていくのはすごくいい
また、手紙も「長い間、差し上げておりませんでしたので」などという感じで書いて寄こしてくるのは、とてもうれしいですね


----------訳者の戯言---------

私、用事がないのに出かけること自体、考えられないですけどね。
用事もないのに来られても困りますし。
めんどくさいでしょう、どっちも。
っていうか、冒頭部分と結論部分で書いてること、真逆じゃないですか!?
行くのはだめで、来るのはウェルカムって…。
完全に矛盾しちゃってます。というか、ご都合主義。

さて、いきなり出てきた阮籍
こういう物知りネタ、ちょいちょい入れてきます、さすが兼好。勉強になります。
竹林の七賢人」って聞いたことあるけど、そのうちの一人らしいですね。
だいたい読み方からしてわからんし。
と思って調べたら「げんせき」でした。
覚えられる気はしませんが。

兼好法師、意外と人とのコミュニケーションを望んでたりするみたいね。
寂しいのか?


【原文】

さしたる事なくて人の許行くは、よからぬ事なり。用ありて行きたりとも、その事果てなば疾く歸るべし。久しく居たる、いとむつかし。

人と對ひたれば、詞多く、身もくたびれ、心も靜かならず、萬の事さはりて時を移す、互のため益なし。厭はしげにいはむもわろし。心づきなき事あらん折は、なかなか その由をもいひてん。同じ心に向はまほしく思はん人の、つれづれにて、「今しばし、今日は心しづかに」などいはんは、この限りにはあらざるべし。阮籍が青き眼、誰もあるべきことなり。

その事となきに、人の來りて、のどかに物語して歸りぬる、いとよし。また文も、「久しく聞えさせねば」などばかり言ひおこせたる、いと嬉し。


検:第170段 第170段 さしたる事なくて人の許行くは さしたる事なくて人のがり行くは

第百六十九段 何ごとかの『式』ということは

「何ごとかの『式』ということは、後嵯峨天皇が在位されてた時代までは言わなかったんだけど、最近になって言うようになった言葉である」とある人が申しましたけど、建礼門院右京大夫が、後鳥羽院のご即位後、宮中に再就職したことを言うのに「世のしきも変りたる事は無きにも(世の中のシステムが変わっている事もないのに)」と書いてるのだ


----------訳者の戯言---------

そもそもなのですが、どうやら兼好法師、勘違いのようです。

建礼門院右京大夫集」百三十八段にたしかに「御しつらひも、世のけしきも、変りたることなきに、ただわが心の内ばかり、砕けまさる悲しさ」と書かれている部分があります。
ただし書かれているのは「しき」ではなくて「けしき」です。

たぶん兼好法師は、「システム、スタイル、ルールといった意味合いの『式』というワードは最近のもんだよ」と言ってる人がいたけど、それって平安末期の頃、すでに建礼門院右京大夫が書いてるからね!と言いたかったんですね。
違うけどね。

原典の「御しつらひも~」の部分の意味は「殿中の装飾も、あたりの様子が変わったという事もないけれど、ただ私の心の中だけは、ますます粉々に砕けて…そんな悲しさなのです」という感じです。
前後にもいろいろ書いてますが、次の歌の長めの詞書として書かれています。

今はただ しひて忘るる いにしへを 思ひ出でよと 澄める月影

(訳)今はただ、無理に忘れようとしてる昔の事を、思い出せと(言うかのように)澄みきった月明かりであることよ

余談ですが、名前から何となくわかりますけど、建礼門院右京大夫(けんれいもんいんうきょうのだいぶ)というのは建礼門院平徳子平清盛の娘、安徳天皇の母)に仕えていた女性だそうです。
はっきりとした生年はわからないんですが、1172年に15~18歳で建礼門院に出仕しているようですね。

いわば宮中に仕える、賢いキャリアウーマン、というイメージです。
建礼門院右京大夫集」は彼女の私家集で、主に恋人の平資盛への思いを中心に描かれているようです。
読んでいないので詳しくはわからないんですが。
平資盛というのは、かの平清盛の孫にあたる人で、建礼門院右京大夫とはほぼ同年齢。
当時は平家台頭の時期でしたから、ピカピカの王子様で、しかも和歌なども優れてたらしい。
容姿も端麗であったそうです。

建礼門院右京大夫集」にもその時の恋愛のときめきの様子、恋愛模様、そして終わりまでが本人の記述によって描かれているそうです。

さて平資盛ですが、壇ノ浦の戦いで戦死しています。
これは日本史でも習いましたね。
恋人の死後、建礼門院右京大夫は勤めをやめ、供養の旅に出たのだそうです。
純愛ですね。
けど、恋人は政治的に追われたりとかはしなかったんでしょうかね。しなかったんですね。

しかし面白いのは、それだけではないんです。

彼女には途中でもう一人恋人が現れます。

藤原隆信という人で、かなり年上の貴族で、和歌や絵画でも有名なアーチストであり役人でもあったプレイボーイです。
当時は「色好み」と言われました。
光源氏とか、実在の人物では伊勢物語在原業平なんかもそう言われてますね。
下品に言うと「ヤリ〇〇」ということになります。

建礼門院右京大夫、ずいぶんと藤原隆信に言い寄られ、最初はかなり拒んでたようですが、断り切れず付き合ってしまいます。

藤原隆信は1142年生まれで1175年33歳の時に子ども(たぶん次男です)も誕生しています。
ですから、まあ、今なら妻子ある年上プレイボーイとの不倫ですわね。
しかも自分にも彼氏いるし。

しかし。

当時は一夫多妻ですからね。
全然不倫ではありません。
そして、恋人の平資盛にも正妻がおりました。
ですから、恋人と言われていますけど、建礼門院右京大夫は、歴史的には平資盛の妾ということになっています。
恋人=妾=愛人=側室、と、どれも似たようなものってことでしょうかね。

つまり、男性側はもちろん、女性の側も、そういう恋愛沙汰については、今の倫理観で判断するのはよくない、というか当たってないと思うんです。二股、三股とかも、今みたいに悪いイメージのものだったのか、それさえ疑問です。
ただ、そのへんの詳細は、本当に申し訳ないんですが、詳しい方に聞いていただくか、調べていただくといいと思います。
すみません。

ところで、平家は壇ノ浦で敗れたけど、その恋人が捕らえらえたり、追われたりということはなかったのかな、と先に書きましたが、考えてみると、正室は仕方ないとしても、失脚した人の恋人や側室なんかをことごとく処罰なんかしてたら、ものすごい数の女性にペナルティを与えざるを得なくなってしまう。ですから、なかなかそこまでできない、という事情はあったかもしれませんね。

いずれにしても、藤原隆信も恋人であったと。
年齢も一回り以上年上、自信満々なおじさんとの大人の恋愛にハマるのですね。

しかし藤原隆信、さすが色好み。
建礼門院右京大夫をモノにした途端に冷めちゃったらしい。
今も昔もいるっていうことです、こういう人。

で、ようやく本題に戻ります。
平資盛が戦死し、供養の旅に出た建礼門院右京大夫ですが、年月を経て、おそらくそのキャリアを生かして再就職したのでしょう。乞われたんでしょうね。
40歳前くらいだったようです。
その時の話が、この段にでてきた「建礼門院右京大夫集」の一節、とのことです。

と、まーそういうわけで、昔もいろいろあったもんやなあ、と思いました。
今回はずいぶん本題から外れまくりです。

長い。


【原文】

「何事の式といふ事は、後嵯峨の御代迄はいはざりけるを、近き程よりいふ詞なり」と、人の申し侍りしに、建禮門院の右京大夫後鳥羽院の御位の後、また内裏住みしたることをいふに、「世の式も變りたる事はなきにも」と書きたり。


検:第169段 第169段 何事の式といふ事は

第百六十八段 年老いた人が、一芸の才能があって

老いた人が、一芸の才能があって、「この人が亡くなった後は、誰に質問したらいいんだろう」なんて言われるのは、老いの心強い味方であって、(そんななら)生きているのも無駄にはならないよ
とは言っても、年を取ってるのに衰えた所が無いっていうのも、「一生この事だけで終わるんや」と、それはそれでつまらなく思えるんだ
「今は忘れてしまった」とか言うのがいいんだろうね
だいたい、知ってても何でもかんでも言いまくってたら、それほどの才能でも無いんじゃないかと思えちゃうし、自然と間違った言動も多くなってくるはずなんだよ
「ハッキリとは解ってないのです」なんて言うのが、やっぱり、さすが本物のその分野のオーソリティ!と思われるところだろうね
それに比べて、解ってもないことを、したり顔で、年配の人が、反論できない人たちに言い聞かせてるのを「そんなことないのになー」と思いながら聞いてるのは、めちゃくちゃ侘しいよ


----------訳者の戯言---------

社長とかのつまらない説教や訓話を聞いている部下の気持ち。

白鵬からの説教中の貴ノ岩の気持ち。
しかし、スマホを操作したりなんかすると、リモコンで殴られる(ホッチキスで9針)恐れがあるので、やめといたほうがいい。


【原文】

老いたる人の、一事すぐれたる才のありて、「この人の後には、誰にか問はん」などいはるゝは、老の方人にて、生けるも徒らならず。さはあれど、それもすたれたる所のなきは、「一生この事にて暮れにけり」と、拙く見ゆ。「今はわすれにけり」といひてありなん。大方は知りたりとも、すゞろにいひ散らすは、さばかりの才にはあらぬにやと聞え、おのづから誤りもありぬべし。「さだかにも辨へ知らず」などいひたるは、なほ實に、道の主とも覺えぬべし。まして、知らぬこと、したり顔に、おとなしく、もどきぬべくもあらぬ人のいひ聞かするを、「さもあらず」と思ひながら聞き居たる、いとわびし。


検:第168段 第168段 年老いたる人の、一事すぐれたる才のありて

第百六十七段 一つの専門分野に携わってる人が

一つの専門分野に携わってる人が、自分の専門以外の分野の会合に参加して「ああ、自分の得意分野の話だったら、こんな風に関係ねーってスルーしたりはせんのやけどな」とか言ったり、心の中でそう思うことはよくあるんだけど、これ、めっちゃダメだと思うんだよね
知らない分野のことをうらやましく思うんだったら「ああうらやましい。なんでこのジャンルを勉強しなかったんだろ」って言ってればいいんです
自分の知恵を持ち出して人に争いを挑むのは、角のある動物が角を傾け、牙のある動物が牙を出して噛みつくのといっしょなのね

人としては、善い行いを自慢せず、争い事をしないのを徳とします
他人より優れてることがあるのは、実は大きなマイナスなんですよ
身分の高さでも、学問や芸能の優れてるのも、先祖の名誉も、人より勝ってると思ってる人は、たとえ言葉に出して言わなくても、心の内側に大きな欠点を抱えてるんです
謙虚になってこれ(つまり、自分が人より優れてること)を忘れてしまうべき!
バカに見えたり、人から非難されたり、災いを招くのも、この「慢心」というやつなんですよ
一つのジャンルに本当に精通してる人っていうのは、自分自身ではっきりとその未熟さをわかってるからこそ、志が常に満たされることがなくて、最後まで人に自慢することも無いんだよね


----------訳者の戯言---------

自慢しちゃだめ。
前に比べたら、ちょっとは兼好もわかってきたんかな、とは思う。


【原文】

一道に携はる人、あらぬ道の筵に臨みて、「あはれ、我が道ならましかば、かくよそに見侍らじものを」と言ひ、心にも思へる事、常のことなれど、世にわろく覺ゆるなり。知らぬ道の羨ましく覺えば、「あな羨まし、などか習はざりけん」と言ひてありなん。我が智を取り出でて人に爭ふは、角あるものの角をかたぶけ、牙あるものの牙を噛み出す類なり。

人としては、善にほこらず、物と爭はざるを徳とす。他に勝る事のあるは、大きなる失なり。品の高さにても、才藝のすぐれたるにても、先祖の譽にても、人にまされりと思へる人は、たとひ詞に出でてこそいはねども、内心に若干の科あり。謹みてこれを忘るべし。をこにも見え、人にも言ひ消たれ、禍ひをも招くは、たゞこの慢心なり。

一道にも誠に長じぬる人は、みづから明らかにその非を知る故に、志常に滿たずして、つひに物に誇ることなし。


検:第167段 第167段 一道に携る人、あらぬ道の筵に臨みて

第百六十六段 人がそれぞれに仕事に励んでるのを見てたら

人がそれぞれに仕事に励んでるのを見てたら、春の日に雪で仏を作って、そのために金銀、宝玉の飾りを取り付けて、お堂を建てようとしてるのに似てるんだよね
その建物ができるのを待って、雪仏をうまく安置できるもんかな?(溶けるし。できないできない)
人の命がまだあるって思ってても、そのうちに、下からじんわり消えて無くなっていくのは、まるで雪のよう
なのに、その間、仕事に励みながらただただ待つ、っていうケースがすごく多いんだ


----------訳者の戯言---------

あんまり頑張ってもなー、ってことか。

 

【原文】

人間の營みあへる業を見るに、春の日に雪佛を造りて、その爲に金銀珠玉の飾りを營み、堂塔を建てむとするに似たり。その構へを待ちて、よく安置してんや。人の命ありと見る程も、下より消ゆる事、雪の如くなるうちに、いとなみ待つこと甚だ多し。


検:第166段 第166段 人間の営みあへるわざを見るに 人間の営みあへる業を見るに

第百六十五段 自分のテリトリー外で人と交流するのは、見苦しい

関東人が都の人と交際したり、都の人が関東に行って出世したり、はたまた、本寺や本山を離れてる顕教密教の僧侶etc. すべて自分のテリトリー外で人と交流するのは、見苦しいな


----------訳者の戯言---------

異業種交流会などもってのほか。
国際交流、グローバリズムとか全否定。

顕教というのは、衆生を教化するために姿を示現した釈迦如来が、秘密にすることなく明らかに説き顕した教え。
密教とは、真理そのものの姿で容易に現れない大日如来が説いた教えで、その奥深い教えである故に容易に明らかにできない秘密の教え。
と、ウィキペディアに書いてあります。

顕教は浄土宗、禅宗など。密教真言宗がこれにあたります。
天台宗は両方が併用されてるようですね。
それぞれの内容は難しすぎてよくわかりません。

インドに行って勉強しようか。
それもテリトリー外なんですかねー、海外への仏教留学は兼好的にはだめですか? それはいいですよね、さすがに。


【原文】

東の人の、都の人に交はり、都の人の、東に行きて身をたて、また、本寺・本山をはなれぬる顯密の僧、すべてわが俗にあらずして人に交れる、見ぐるし。


検:第165段 第165段 東の人の、都の人に交はり 吾妻の人の都の人に交り