徒然草 現代語訳 吉田兼好

徒然草を現代語訳したり考えたりしてみる

吉田兼好の徒然草を現代の言葉で書いたり、読んで思ったことを書いています。誤訳や解釈の間違いがありましたらぜひご指摘ください。(序段---冒頭文から順番に書いています。検索窓に、第〇〇段、またはキーワードを入力していただけばブログ内検索していただけると思います)

第二百三十段 五条の内裏には化け物がいた

五条の内裏には化け物がいたんだよ
藤大納言殿が語られたことには、殿上人たちが黒戸の御所で碁を打ってたら、御簾を上げて見てる者がいたのね
「誰だ!?」と見たら、狐が人間みたいにひざまづいて覗いてたんだけど「うわ、狐だ!!」って大騒ぎしたもんだから、あわてて逃げちゃったんだよ
未熟な狐が化けそこなったんだろうね


----------訳者の戯言---------

これ、うっかりすると五条の内裏で起こった出来事に見えるんですけど、違うんですね。

黒戸っていうのは第百七十六段で出てきました。
天皇がここで料理を作ったりしてたから、戸が煤で黒くなって黒戸ってよばれた部屋があったの。
ここを通称「黒戸の御所」なんて言い方もしたようです。

平安宮内裏には17個の宮殿があって、清涼殿もその一つ。
この黒戸って部屋は清涼殿にある部屋の一つですから、当然、平安宮内裏の中ですね。

で、殿上人たちがそこで碁を打って遊んでたと。
「殿上人」っていうのは、そんなめっちゃ上のほうじゃない宮仕えのスタッフ、公務員だそうです。
幹部とかじゃない一般の役人なんですけど、清涼殿に行くのは許されてる人たちですから、まあまあのレベルの人、っていう感じですか。

まー鎌倉時代ですからね、今みたいな電灯とかないですから、薄暗いと、覗いてるのが何なのかなんて、よく見えないと思いますよ。
たぶん、人が覗いてただけでしょう。

そんな話にさらに尾ひれが付いたんでしょうね。

で、なぜか五条大路に面した「里内裏」のほうにその狐の妖(あやかし)がいた、ということになってます。
根拠は全くわかりませんが。
里内裏っていうのは、平安宮内裏でなく、別邸として造られた仮の内裏なんだそうです。
京都の随所にあったらしく、今の京都御所も里内裏の一つとか。
ちなみに本宅の平安宮内裏は今の二条城の北西のあたりにあったらしいですね。
もちろん、めっちゃ広かったはずですが。

五条通は今とはちょっとずれていて、もうちょっと北だったらしいです。
今は松原通と言われている道だそうですね。
それでも平安宮内裏のあった一条~二条あたりまでは2~3kmありますから、微妙な距離。
ま、妖怪なんで距離は関係ないんですけどね。

しかし、まあまあの知識人である兼好が科学的根拠もない妖を信じるってのもなー。
そんな時代だったってことなんでしょうかね?


【原文】

五條の内裏には妖物ありけり。藤大納言殿 語られ侍りしは、殿上人ども、黑戸にて碁を打ちけるに、御簾をかゝげて見る者あり。「誰そ」と見向きたれば、狐、人のやうについゐて、さしのぞきたるを、「あれ狐よ」ととよまれて、まどひ逃げにけり。未練の狐、化け損じけるにこそ。


検:第230段 第230段 五条内裏には、妖物ありけり

第二百二十九段 腕のいい工芸職人は、少し鈍い刀を使う

腕のいい工芸職人は、少し鈍い刀を使うというんだ
妙観の刀はそんなには鋭くないのだよ


----------訳者の戯言---------

今回は前段とは逆に、ホンマに?
んなわけないやろ。
って話。

刀は彫刻刀とかのことと思われます。

たしかにいいパソコン使ってもいい文章が書けるわけでもないし、いい仕事ができるわけでもないですからねー。
しかし、戦闘ゲームとかアクション系やってると、いいキーボード、反応のいいPC、モニタなんかは必要ですし。上手い人の場合は。
楽器なんかもいいのは音が全然違いますしね。
調理師さんなんかもいい包丁使います。

私は絵を描くのはマーカーとか、ゲルボールペンで十分。
字は筆ペンでもいいし。
楽器もまあ、どんなのでもいいです。包丁も。
スマホもそこそこ使えたらそれでいい。
どっちにしても私のような凡人は、どんな道具使っても一緒なんですけどね。


【原文】

よき細工は、少し鈍き刀をつかふといふ。妙觀が刀はいたく立たず。


検:第229段 第229段 よき細工は

第二百二十八段 千本釈迦堂の釈迦念仏は

千本釈迦堂の釈迦念仏は、文永のころ、如輪上人が、これを始められたんです


----------訳者の戯言---------

あーそうなんやー。
で?
って感じ。


【原文】

千本の釋迦念佛は、文永のころ、如輪上人、これを始められけり。


検:第228段 第228段 千本の釈迦念仏は、文永の比

第二百二十七段 「六時礼賛」は

「六時礼賛」は、法然上人の弟子の安楽という僧侶が経文を集めて作って、勤行に使ったものなんだ
その後、太秦善観房という僧が、節博士を定めて声明に仕立てたんだよ
これ、一念の念仏の起源でね
嵯峨院が治めてた御代から始まったものなんだ
で、「法事讃」も同じく善観房が始めたものだよ


----------訳者の戯言---------

「六時礼賛」(=六時礼讃)というのは、浄土宗で1日6回、阿弥陀仏を称える「偈(げ)」っていうのを唱える法要のことだそうです。
で、「偈」っていうのは、詩なんですね。
漢詩ですから、五言×4句とか、七言×4句みたいな形式だったみたいです。

で、そういうのを何個も集めて唱和する法要が「六時礼賛」で、それを構成したのは安楽っていうお坊さんだったと。
そして、それに節をつけたのが太秦善観房というお坊さんだったわけですね。
「節博士」っていうのはドクターのことじゃなく、声明とか平曲なんかの詞の横に書かれてて、節の長短や高低なんかを表す符号とのこと。
もちろん「博士」にはドクター的な意味もあって、間違いやすいんですけど、ここでは基準とか手本とかの意味。
だとすれば、譜面みたいなものか、今で言うとコード譜みたいな感じかもしれませんね。

で、「声明(しょうみょう)」にしたと。簡単に言うと、歌にした、ってことです。
つまり、「六時礼賛」は作詞/安楽、作曲/太秦善観房、ということらしいんです。
いやちょっと違うかな。
作詞はそれぞれの詩の作者で、作曲は太秦善観房、プロデュースが安楽、と言う感じかもしれません。

プロテスタントの教会でやってるゴスペルみたいなもんですね。
あのクワイアーが歌うやつに、意味合いとしては近いかもしれません。
あれも、文字通り賛美歌ですもんね。

「法事讃」っていうのは、唐の善導大師っていう人の作「転経典行道願往生浄土法事讃」の略らしい。
これに曲をつけたのも善観房、ってことでしょうか。

実はここで出てきた、安楽というお坊さん。
正確には安楽房遵西って言います。歴史的には遵西(じゅんさい)で通ってる人らしいですね。
兄弟弟子の住蓮なんかと一緒に「六時礼賛会」って言って、「六時礼賛」のライブイベントもやってたみたいなんですね、布教活動の一環として。
しかもこの人、男前で、歌も上手かったみたいです。
もちろん知性派ですしね。
女性ファンも多かったらしい。今だったらキャーキャー言われる感じでしょうか。

で、実は法然をリーダー、というか師匠とするこの一派、吉水教団っていうんですけど、当時は新興勢力だったらしくて、仏教界の守旧派からものすごく弾圧を受けます。
布教とかお勤めのやり方、考え方なんかも新しかったんでしょうか。
所謂「念仏」をはじめたグループだったわけですね。
で、既存の宗派からは「念仏なんかアカン、やめさせろ」と。
法然と言えば浄土宗の開祖ですし、法然の弟子の親鸞浄土真宗の開祖ですから、今考えると凄い人たちのグループだったわけですけどね。

で、朝廷も、内部っていうか、皇女(親王)だったり、高名な貴族なんかにも信者がいたこともあって、最初は静観してたんですけど、あるスキャンダルが起こります。

後鳥羽上皇が留守の時に、宮中に仕える女房たちが先に書いたライブ「六時礼賛会」に行ったり、遵西(安楽)や住蓮を呼んでプライベートライブをしたり(ほんまか?)、で、「遅くなったから今日は泊まっていきなよ」みたいなことがあったらしい。

いや、噂なんですけどね。文春もない時代ですからね。

宮中の女房とは言いますけど、ま、上皇の妾ですから、まずいですよ、それは。

挙句に、女房2人ほど出家してしまったんですね。
上皇お気に入りのコたちだったのに。

上皇、激怒します。おたくらワシのヨメ、どないしてくれとるんじゃ、ってことです。
元々、仏教界の守旧派から「あいつら不良坊主なんすよー、なんとかしてくださいよー」的なことをずっと言われてたわけですから、それも含めてっていうか、それに私怨もプラスして、「風紀を乱す」ってことで罰せられた、ということらしいですね。
で、遵西(安楽)や住蓮ら4人が処刑、法然をはじめ他のメンバー7名は流罪。
これを「承元の法難」と言うのだそうです。
なるほど。

流された人たちは、もちろん後に活動再開するんですけどね。
それはまた別のお話。

ずいぶん話が逸れました。
「六時礼賛」、現代でも浄土宗、時宗浄土真宗が法要に盛んに使われてるそうですね。
たしかにああいう節回し、私も聴いたことあります。
「六時礼讃」で動画をググればYouTubeでも見られますよ。
思った以上に長くて、全部聴くのは結構つらいです。すみません。

「一念の念仏」については、ネットで調べたんですけど結局わかりませんでした。
専修念仏のことでも称名念仏のことでもないようですしね。
ま、そういうのがあった、ということですね。


【原文】

六時禮讃は、法然上人の弟子、安樂といひける僧、經文を集めて作りて勤めにしけり。その後太秦の善觀房といふ僧、節博士を定めて、聲明になせり。「一念の念佛」の最初なり。後嵯峨院の御代より始まれり。法事讚も、同じく善觀房はじめたるなり。


検:第217段 第217段 六時礼賛は

第二百二十六段 「七徳の舞」

後鳥羽院が治められてた時代、信濃前司行長が、学問のデキる人として有名だったんで、漢詩の楽府について御前で討論するパネリストとして招集されたんだけど、その時「七徳の舞」のうち二つの「徳」を忘れてしまってたがために「五徳の冠者」ってあだ名をつけられたんだよね
で、傷ついちゃって、学問を捨てて世を逃れてたんだけど、(天台宗トップの)慈鎮和尚が当時、一芸ある者を身分が低い者でも召し抱えて面倒を見ていらっしゃってて、この信濃(行長)入道も支援なさったんだ

この行長入道が「平家物語」を作って、生仏という盲目の者に教えて語らせたんだよ
それで山門、つまり天台宗総本山・比叡山延暦寺のことを、特に尋常じゃなくいっぱい書いてるんだよね
九郎判官義経のことは詳しく知ってて書き載せてるよ
蒲冠者(源範頼)のことは、よく知らなかったのか、多くのことを書き漏らしてるね
武士のことや弓馬の技については、生仏が東国の出身者なので、武士に聞いて書かせたんだ
その生仏の生まれつきの声を、今の琵琶法師は学んでいるのだよ


----------訳者の戯言---------

楽府っていうのは漢詩の形式の一つなんですね。
「七徳の舞」っていうのは、その楽府っていう分類の漢詩なんだそうですけど、本当の題名は「秦王破陣楽」というらしい。
「七徳の舞」は実は別名なんですね。

この「七徳の舞(=秦王破陣楽)」というのは、唐の第2代皇帝である太宗の武勇を称えて作られたらしいです。後に振り付けは自分でやった、っていう話も残っているみたいですね。
この「七徳」っていうのはそもそもは「春秋左氏伝」という、「春秋」(孔子の編纂と伝えられてる歴史書)の注釈書の中に書いてあるんだとか。
具体的には「武の持つ七つの徳。一に暴を禁じ、二に兵をおさめ、三に大を保ち、四に功を定め、五に民を安んじ、六に衆を和し、七に財を豊かにすること」と書かれてたらしいんです。

私なんかは難しくてよくわかりませんし、覚えられませんけど、この七徳のうち2コを忘れちゃってたワケですね、行長、残念なことに。

で、つけられたあだ名が「五徳冠者」。
冠者っていうのは、元服を済ませて、冠を着けている少年とか、若者のことなんです。
若い人を指してこう言うのならいいんですけど、まあまあいい歳の大人を「冠者」と呼ぶってことは、言ってみれば、坊や、お兄ちゃん、ヤングマン、若者、みたいな感じで、さらに馬鹿にしてるっていうか、かなり不名誉な呼び方ではありますわね。
世の中というのはひどいものです。

たしかに、斉藤由貴の不倫相手の医者のことを「パンツかぶった人」とか「パンツかぶり」とか言っちゃいますしね。
細野豪志は「モナ男」ですからね、今も。
私もひどいです。
豊田真由子元議員は「真由子さま」ですね。これは別にいいですか。

さて、慈鎮和尚というのは、天台宗の高僧の一人で、慈円という人のおくり名です。
愚管抄」を書いた人として有名ですかね。
当時は天台宗の座主(トップ)だったようです。
今回の逸話からして、人格者だったことがわかります。

さて、「平家物語」については、現代になってもまだ作者は不詳のままです。
兼好の説も根拠がないみたいですからね。
生仏(しょうぶつ)という人は、たぶん盲目の琵琶法師だったんでしょう。
しかしこれについても、残念ながら典拠が無いようです。


【原文】

後鳥羽院の御時、信濃前司 行長 稽古の譽ありけるが、樂府の御論議の番に召されて、七徳の舞を二つ忘れたりければ、五徳の冠者と異名をつきにけるを、心憂き事にして、學問をすてて遁世したりけるを、慈鎭和尚、一藝ある者をば下部までも召しおきて、不便にせさせ給ひければ、この信濃入道を扶持し給ひけり。

この行長入道、平家物語を作りて、生佛といひける盲目に教へて語らせけり。さて、山門のことを、殊にゆゝしく書けり。九郎判官の事は委しく知りて書き載せたり。蒲冠者の事は、能く知らざりけるにや、多くの事どもを記しもらせり。武士の事・弓馬のわざは、生佛、東國のものにて、武士に問ひ聞きて書かせけり。かの生佛がうまれつきの聲を、今の琵琶法師は學びたるなり。


検:第226段 第226段 後鳥羽院の御時、信濃前司行長

第二百二十五段 白拍子のルーツ

多久資(おおのひさすけ)が申したことには、
「通憲入道が、舞の手の中で趣のあるものを選んで、磯の禅師という女に教えて舞わせたんだ。白い水干に、鞘巻(鞘の無い短刀)を差させ、烏帽子をかぶらせて男のような恰好で舞わせたので、男舞と言ったんだよ。その磯の禅師の娘で静というのが、この芸を継いだのね。それが白拍子のルーツなんだよね。仏や神の由来、起源を歌うものなのさ。その後、源光行が多くの歌詞を作ったんだ。後鳥羽院の作られた詞もあるよ。これは亀菊にお教えになったということなんだ」


----------訳者の戯言---------

たくすけって誰よ?と思いましたが、「多久資=おおのひさすけ」でした。
雅楽の奏者なんだとか。

通憲入道っていうのは、信西というお坊さんで、俗名を藤原通憲と言いました。出家した人なので「入道」とついてるわけです。

しかしこの段、全部「伝聞」なんですよね。
気をつけないといけないのは、「いつ頃の話か」というのを整理しないとよくわからなくなるってことです。

まず多久資は1295年に亡くなっていますけど、兼好は1283年頃の生まれですから、直接聞いたとしても10歳くらい以前、子どもの頃っていうことになるんです。
そんなわけはないですから、まずこの話自体、直接聞いてないだろう、伝聞だろう、ってことなんですね。

しかも、多久資の話にしても、まるで直接見たかのように言ってますが、藤原通憲信西っていう人は1160年に亡くなってるわけで。多久資から見てもおよそ100年ほど前の人ですからね。
これまた人づてに聞いた話だろうと。
私たちが明治時代のことをリアルなことのように話してる感じでしょうか。

もちろん、コミュニティの大小とか、情報網とか、メディアとかは全然違いますから、単純な比較は難しいんですけどね。

ちなみに書いておくと、源光行は1244年没、後鳥羽院(=後鳥羽天皇後鳥羽上皇)は1180~1239年の人です。

亀菊というのは、当時の白拍子で、後鳥羽天皇が寵愛した人らしいです。
そのことはここに特に書かれてないですから、亀菊が後鳥羽天皇の愛人だったことは、周知のことっていうか、一般常識なんでしょうね。

白拍子っていうのは、この男舞の別名なんですけど、同時にこの舞いを舞う遊女のことも、こう呼んだんですね。ただ、貴人の屋敷にも出入りしていたので、それなりの見識や教養があったようで、天皇や貴族の妾になった人も多くいたようです。

調べていると、実はこの段の話とは矛盾があるんですが、「平家物語」にも白拍子の起源が書かれていることがわかりました。
鳥羽院の時代に島の千歳、和歌の前という2人が舞いだしたのが白拍子の起こりである」
平家物語に書いてある、とウィキペディアに書かれてます。

つまり、この段、ちょっと真偽の怪しい話ではあるんですね。
平家物語はほぼリアルな時代に書いてますけど、それに比べたら、伝聞の伝聞(もしかしたら、そのまた伝聞、とかかもしれない)ですし、兼好が徒然草を書いてる時点からすると150~200年も前のことですから、信憑性も乏しいんです。

ただ、兼好が平家物語を読んでないはずはありませんから、どういうことなんでしょう。
兼好の読書量、博学はハンパないですから、それだけは今回は謎ですね。

さて、ここで出てきた「静」というのは、源義経の妾であった静御前のことだと思います。
ただ、静の母が磯の禅師(磯禅師)であることは歴史的には間違いないようですね。


【原文】

多久資が申しけるは、通憲入道、舞の手のうちに興ある事どもを選びて、磯の禪師といひける女に教へて、舞はせけり。白き水干に、鞘卷をささせ、烏帽子をひき入れたりければ、男舞とぞいひける。禪師がむすめ靜といひける、この藝をつげり。これ白拍子の根源なり。佛神の本縁をうたふ。その後、源光行、多くの事をつくれり。後鳥羽院の御作もあり。龜菊に教へさせ給ひけるとぞ。


検:第225段 第225段 多久資が申しけるは、通憲入道、舞の手の中に 多久資が申しけるは、通憲入道、舞の手のうちに

第二百二十四段 陰陽師有宗入道が鎌倉から京に上ってきて

陰陽師有宗入道が鎌倉から京に上ってきて、私の家を尋ねてやってきたんだけど、家に入ってまず、「この庭が無駄に広いのは呆れるほどで、これ、あってはならん事ですよ。道理をわきまえてる者なら、植物を植えることに努めるもんです。細い道を一本だけ残して、全部畑にしちゃいなさいな」と忠告されたのよ

たしかにまじで、少しのスペースでも無駄に空けておくのは無益なこと!
野菜とか薬草なんかを植えておくべきなんだよね


----------訳者の戯言---------

陰陽師
安倍晴明の子孫らしい。

今回はいつになく素直な兼好。


【原文】

陰陽師 有宗入道、鎌倉より上りて、尋ねまうできたりしが、まづさし入りて、「この庭の徒らに廣き事、淺ましく、あるべからぬことなり。道を知るものは、植うる事をつとむ。細道ひとつ殘して、みな畠に作りたまへ」と諫め侍りき。

誠に、すこしの地をも徒らに置かむことは、益なきことなり。食ふ物・藥種などうゑおくべし。


検:第224段 第224段 陰陽師有宗入道、鎌倉よりのぼりて 陰陽師有宗入道、鎌倉より上りて

第二百二十三段 鶴(たづ)の大臣殿は、幼名が「たづ君」

鶴(たづ)の大臣殿は、幼名が「たづ君」なのだよ
「鶴をお飼いになってたから」っていうのはガセなのです


----------訳者の戯言---------

兼好、急にどしたん?
という段。
思いついたのか? 意味不明なり。

鶴の大臣殿というのは九条基家という人らしいです。


【原文】

鶴の大臣殿は、童名たづ君なり。「鶴を飼ひ給ひける故に」と申すは僻事なり。


検:第223段 第223段 鶴の大臣殿は

第二百二十二段 竹谷乗願房が東二条院の元に参られた時

竹谷乗願房が東二条院の元に参られた時、東二条院が、
「亡くなった人の供養には、何をしたらメリットが多いんでしょうかね」
とお尋ねになられたところ、竹谷乗願房が
「光明真言(こうみょうしんごん)、宝篋院陀羅尼(ほうきょういんだらに)」
と申されたのを、弟子たちが
「どうしてあんな風に申し上げられたんですか? 『念仏に勝るものはございません』とは、なんで申されなかったんです?」
って申したところ、
「我が宗派のことやから、そう申し上げたかったんは山々やけど、ハッキリ言うて、念仏唱えて供養したからいうて、めっちゃようけメリットあるって教えてくれとる経文なんか見たことないし、『何の経文に出てるんですか?』って、もし重ねてご質問になられたら、どう申し上げたもんかなーと思って、根拠となる確実な経文に基づいて、この『真言、陀羅尼』だけをとりあえず申し上げたんや」
と申されたのさ


----------訳者の戯言---------

原文に出てくる「称名」というのは、文字通り仏、菩薩の名を称えること。
狭義では、南無阿弥陀仏を称えることをさします。
ここに登場すしている竹谷乗願房という僧侶は浄土宗の人(法然の弟子)らしいので、まさに「南無阿弥陀仏」の念仏ですね。
ということで、つまり「称名」は、「念仏を唱えること」を意味するらしいですね。
なるほど。

で、「追善」「追福」っていうのは、だいたい同じものらしい。
人の死後7日目ごとに49日までとか、その後百カ日、1周忌なんかに亡くなった人の冥福を祈って法要をやりますよね。
つまりこの仏教の法事と言いますか、供養のことを、こう言うらしいです。

そして本題の「光明真言、宝篋院陀羅尼」です。
簡単に言えば、これ「真言」のことなんですね。
で、そもそも「真言」っていうのは、まあ言うと「真実のことばで仏さまの真理を説き、その徳をたたえる短いお経」のことらしい。
ただ、梵語サンスクリット語)をそのまま音写したものらしいので、勉強してなかったら普通は意味わかるはずないですわね。
その中で、短いものを「真言」といい、比較的長いものを「陀羅尼」と呼ぶそうです。
割とアバウトなもんなん!?

まあ、それはいいとして、竹谷乗願房って人、律儀と言うか、臆病と言うか、生真面目と言うか、そういう描き方です。
真意は定かではないけど、兼好法師的には好意的に書いている感じはしますね。


【原文】

竹谷の乘願房、東二條院へ參られたりけるに、「亡者の追善には、何事か勝利多き」と尋ねさせ給ひければ、「光明眞言、寶篋印陀羅尼」と申されたりけるを、弟子ども、「いかにかくは申し給ひけるぞ。念佛に勝ること候まじとは、など申し給はぬぞ」と申しければ、「わが宗なれば、さこそ申さまほしかりつれども、まさしく、稱名を追福に修して巨益(こやく)あるべしと説ける經文を見及ばねば、何に見えたるぞと、重ねて問はせ給はば、いかゞ申さむと思ひて、本經のたしかなるにつきて、この眞言・陀羅尼をば申しつるなり」とぞ申されける。


検:第222段 第222段 竹谷乗願房、東二条院へ参られたりけるに

第二百二十一段 建治、弘安の頃は

「建治、弘安の頃は、葵祭の日の放免(検非違使庁のスタッフ)が身に着ける飾りとして、エキセントリックな紺の布、四五反で馬を作って、尻尾とたてがみには灯心(いぐさで作った火を灯す用具)を使い、蜘蛛の巣を描いた水干(カンタンな服)につけて、『歌の心~』なんて言ってまわってるのを、いつも見かけましたけど、面白いことやってるなーという気分でございましたな」と、年老いた道志たちが、今日も語ってらっしゃった

最近は飾り物も、年を追うごとに、さらに度を超えて派手になってしまって、あらゆる重い物をいっぱい付けて、左右の袖を人に持たせて、自分は鉾さえ持たないで、あえぎ苦しんでるのは、すごく見苦しい


----------訳者の戯言---------

建治、弘安の頃っていうのは1275~1288年だそうです。
徒然草が書かれたのより50年ほど前ということになります。兼好が生まれたころでもありますね。

で当時は「放免」っていうのが、葵祭の警護にあたったらしいです。
放免というのは検非違使庁のスタッフだというんですけど、元・罪人がこの役目になってたらしくて、職名もそこから来ているんですね。

さて、なんか馬を作ったっていう話なんですけど、布、当時の1反って、長さ9mぐらいらしいですから、4~5反って、めっちゃ長くないか?
要するに着物4~5着分でしょ。
ということは、装飾品というよりも、着ぐるみ的なものなのかな?
尻尾とたてがみはいぐさで作った日用雑貨みたいなものを使って付けてたようですしね。
今で言うと、ハロウィンの仮装みたいなものだったんでしょうか。

導志というのは、検非違使庁の「道志」という官職のことだそうです。
大学の明法道(=律令格式を学ぶ学科)出身者が就いた職とされているようで、たぶん事務官のようなものでしょうね。
法学部出て警察庁の官僚になった人、みたいな感じでしょうか。

しかし毎度のことながら、兼好、最近の風潮を嘆き、昔を礼賛。


【原文】

建治・弘安のころは、祭の日の放免のつけものに、異樣なる紺の布四五反にて、馬をつくりて、尾髪には燈心をして、蜘蛛の糸かきたる水干に附けて、歌の心などいひて渡りしこと、常に見及び侍りしなども、興ありてしたる心地にてこそ侍りしか」と、老いたる道志どもの、今日もかたりはべるなり。

この頃は、つけもの、年をおくりて過差ことの外になりて、萬の重きものを多くつけて、左右の袖を人にもたせて、みづからは鋒をだに持たず、息づき苦しむ有樣、いと見ぐるし。


検:第221段 第221段 建治・弘安の比は、祭の日の放免の付物に 建治・弘安のころは、祭の日の放免のつけものに 建治・弘安の比は、祭の日の放免のつけものに 建治・弘安のころは、祭の日の放免の付物に