第二百四十三段(最終段) 八歳になった時、父に質問して
八歳になった時、父に質問してこう言ったの
「仏はどういうものでございましょうか?」って
それに父が答えて言ったのが
「仏には人がなったんだ」と
で、私また質問、
「人はどうやって仏に成りましたんでしょう?」ってね
父はまた、
「仏の教えによってなったんだ」と答えたの
また、私はこう質問、
「その教えられた仏を、何者が教えましたのでしょうか?」と
父がまた答えたのは、
「それもまた、その前の仏の教えによって、仏におなりになったのよ」とね
またまた私、質問して、
「その教えを始めなさった第一の仏は、どんな仏でございましたか?」って言った時、
父は、
「空から降ってきたんかな? 土から湧いてきたんかな?」と言って、笑ったの
「問い詰められて、よう答えませんでしたわ」と、父はいろいろな人に語って面白がったんだって
----------訳者の戯言---------
ついに最終段です。
兼好の父、卜部兼顕という人は、吉田神社の神職であり、治部省という役所の少輔も務めたそうです。
卜部氏というのは代々神職の家柄だったようで、嫡流は兼好より後の時代に吉田家と称するようになった、とウィキペディアに書いてありました。
それで、江戸時代以降、「吉田兼好」と言われるようになったのですが、兼好法師自身は自分のことを「ワシは吉田兼好じゃ」と名乗ったわけではありません。
あくまでも、僧侶「兼好(けんこう)」であり、出家前の本名は「卜部兼好(うらべかねよし)」です。
名前の読み方は違います。
兼好の場合、字が同じなのは、たまたまというか、なぜかはわかりませんが、多くの僧侶は本名(俗名)と法名は違う名前なのが普通ですね。
だから、この「徒然草」を書いた時は自称、他称ともに「兼好」もしくは「兼好法師」でよかったはずです。
元々は、兼好というのは神社の家の子だったわけですね。
当時は神職にある人の家庭で、仏様について何気に語るというのも、普通にあったようです。今も概ねそうかもしれませんが。
まさに神仏習合の思想が浸透している日本ならではです。
兼好に至っては出家してますから、何をかいわんやですね。
でも、皇族の親王さまたちもクリスマス的なのはやるみたいですから、いいんです、それが日本です。
子どもの時から、なかなか聡明なというか、追究心あふれる子であったと。
そういうお話で結んでいます。
あまり自分のことは語らなかった兼好ですが、最後はこんな感じで締めくくりましたね。
【原文】
八つになりし年、父に問ひて云はく、「佛はいかなるものにか候らん」といふ。父が云はく、「佛には人のなりたるなり」と。また問ふ、「人は何として佛にはなり候やらん」と。父また、「佛のをしへによりてなるなり」とこたふ。また問ふ、「教へ候ひける佛をば、何がをしへ候ひける」と。また答ふ、「それもまた、さきの佛のをしへによりてなり給ふなり」と。又問ふ、「その教へはじめ候ひける第一の佛は、いかなる佛にか候ひける」といふとき、父、「空よりや降りけん、土よりやわきけん」といひて、笑ふ。
「問ひつめられて、え答へずなり侍りつ」と諸人にかたりて興じき。
検:第243段 第243段 八になりし時、父に問ひて言はく