徒然草 現代語訳 吉田兼好

徒然草を現代語訳したり考えたりしてみる

吉田兼好の徒然草を現代の言葉で書いたり、読んで思ったことを書いています。誤訳や解釈の間違いがありましたらぜひご指摘ください。(序段---冒頭文から順番に書いています。検索窓に、第〇〇段、またはキーワードを入力していただけばブログ内検索していただけると思います)

第二百四十一段 満月はまんまるで

満月はまんまるで、だけどそれは、ほんのちょっとの間もそのまんまじゃなく、すぐ欠けてしまうんだ
でも注意散漫な人は、一晩のうちにそこまで変わっちゃう様子にだって、気づかないに違いない
病気が重くなるときも、少しの間も安定しなくてすぐ進行して、気づいた頃には死期がすでにもう間近
でも、まだ病状が深刻じゃなくて、生死にかかわるような事態にもなってないうちは、世の中が平和で穏やかな日常が続くって思いこんでて、生きてる間に多くのことを達成した後で、心静かに仏教の修行すればいいと思ってたんだろうけど、病気にかかっていよいよ死にそうな時、実は「所願(=願い)」がまだ一つも達成できてなくて
でも今さら言ってもどうしようもないし、長年の怠慢を後悔して、
「この後もし病気が治って命をまっとうできたら、昼夜にかかわらず、この事もあの事も、怠らずやり遂げよう」
って、奮い立たせるんだけど、またすぐ病状が悪化したら、自分を見失って、取り乱した挙句に死んじゃうんだ
この類の人が世の中には多いんだろうね
そのことを、まず人々はすぐに心に留めるべきなんだよ

「所願」を達成した後で、余裕があったら仏道修行に向かおうと思ってるんだとしても、「所願」なんて尽きるもんじゃない
幻のような人生の中で、いったい何を達成しようっていうの?
すべて「所願」はどれも、正しくない考えなんだ
「所願」が心に起こったら、そんな誤った考えを持った心が、戸惑わせ心を乱すんだということをちゃんとわかって、「所願」なんか一つだって実現させてはいけないんだよね
すぐに一切を投げ捨てて仏の道に向かう時、差し障りも、無駄なアクションもなくなって、心と体は永く穏やかになるのさ


----------訳者の戯言---------

夢とか目標とか一切持っちゃダメ。
そういうのは、悪い考え。
すぐに仏教の修行へ。

という、結構強引でめちゃくちゃな主張。

そこまでせんとあかんのか?

月の話かと思いきや、うまいこと仏教の修行の話に持っていくあたり、さすが兼好法師です。
この期に及んで結局結論、またもやそれか!?


【原文】

望月の圓なる事は、暫くも住せず、やがて虧けぬ。心とゞめぬ人は、一夜の中に、さまで變る樣も見えぬにやあらん。病のおもるも、住する隙なくして、死期すでに近し。されども、いまだ病急ならず、死に赴かざる程は、常住平生の念に習ひて、生の中に多くの事を成じて後、しづかに道を修せむと思ふ程に、病をうけて死門に臨む時、所願一事も成ぜず。いふかひなくて、年月の懈怠を悔いて、この度もしたち直りて命を全くせば、夜を日につぎて、この事かの事、怠らず成じてんと、願ひをおこすらめど、やがて、重りぬれば、われにもあらず、とり亂して果てぬ。この類のみこそあらめ。この事まづ人々急ぎ心におくべし。

所願を成じてのち、いとまありて道にむかはむとせば、所願盡くべからず。如幻の生の中に、何事をかなさん。すべて所願皆妄想なり。所願心にきたらば、妄心迷亂すと知りて、一事をもなすべからず。直ちに萬事を放下して道に向ふとき、さはりなく、所作なくて、心身ながくしづかなり。


検:第241段 第241段 望月のまどかなる事は