徒然草 現代語訳 吉田兼好

徒然草を現代語訳したり考えたりしてみる

吉田兼好の徒然草を現代の言葉で書いたり、読んで思ったことを書いています。誤訳や解釈の間違いがありましたらぜひご指摘ください。(序段---冒頭文から順番に書いています。検索窓に、第〇〇段、またはキーワードを入力していただけばブログ内検索していただけると思います)

第百二十八段 生き物

(土御門)雅房大納言は、学識があって、立派な人だっていうので、大将にしようとも思われてた頃、院の側近の人が「たった今、あきれるような事を見ました」と申されたので、「何事なんだ?」とご質問なさったところ、「雅房卿が鷹の餌にするために、生きてる犬の足を斬ったのを、垣根の穴から見ました」と申されたんで、院は嫌な気持ちがして、憎らしくもお思いになって、普段の評価も一変し、以後昇進もさせられなかったんだ
あれほどのお方が鷹をお持ちになってるとは思わなかったけど、やはり犬の足は根拠の無いことだったよ
嘘は気の毒なことだけど、このような話をお聞きになって、お憎みになる院の御心は、とても尊いものだよね

だいたい、生き物を殺し、傷つけ、闘わせて遊び楽しむ人は、互いに食い合う畜生の類だよ
あらゆる鳥や獣、小さい虫だって、気をつけてその様子を見ると、子を思い、親を愛し、夫婦で連れ立ち、嫉み、怒り、欲多く、自身を愛し、命を惜しむことは、まったく愚かだってことにおいても、人間以上のものがあるよね
そんな生き物たちに苦しみを与え、命を奪うのは、すごく痛ましいことだ

すべて、一切の生き物を見て、慈悲の心が無いのは、人間ではないですよ


----------訳者の戯言---------

その通りだと思う。

しかし、それでも雅房大納言はやっぱり濡れ衣着せられてかわいそうだと思う。
誤報でもスキャンダルは命取り。


【原文】

雅房大納言は、才賢く、善き人にて、大將にもなさばやと思しける頃、院の近習なる人、「只今、淺ましき事を見侍りつ」と申されければ、「何事ぞ」と問はせ給ひけるに、「雅房卿、鷹に飼はんとて、生きたる犬の足を切り侍りつるを、中垣の穴より見侍りつ」と申されけるに、うとましく、にくくおぼしめして、日ごろの御氣色も違(たが)ひ、昇進もしたまはざりけり。さばかりの人、鷹を持たれたりけるは思はずなれど、犬の足は跡なき事なり。虚言は不便なれども、かゝる事を聞かせ給ひて、にくませ給ひける君の御心は、いと尊きことなり。

大かた生けるものを殺し、痛め、闘はしめて遊び樂しまん人は、畜生殘害の類(たぐひ)なり。萬の鳥獸、小さき蟲までも、心をとめてありさまを見るに、子を思ひ、親をなつかしくし、夫婦を伴ひ、妬み、怒り、慾おほく、身を愛し、命を惜しめる事、偏(ひとえ)に愚癡なる故に、人よりも勝りて甚だし。彼に苦しみを與へ、命を奪はん事、いかでか痛ましからざらん。

すべて一切の有情を見て慈悲の心なからむは、人倫にあらず。


検:第128段 第128段 雅房大納言は、才賢く、善き人にて 雅房大納言は才賢くよき人にて

第百二十七段 あらためても効果がないことは

あらためても効果がないことは、あらためないのがいいということです


----------訳者の戯言---------

シンプル。


【原文】

改めて益なきことは、改めぬをよしとするなり。


検:第127段 第127段 改めて益なきことは あらためて益なき事は 改めて益なき事は

第百二十六段 博打の負けがこんで

「博打の負けがこんで、有り金全部つぎ込もうとする人相手に、博打を打ってはいけない。流れが元に戻って、連勝できるチャンスが相手の側に行ったと知るべきなのね。その頃合いがわかる人を、よい博打打ちと言うんだよ」と、ある人が言ったよ


----------訳者の戯言---------

カイジ相手に、勝負しちゃった利根川を反面教師に。

本人がやってたかどうかわかりませんが、ギャンブルの話も何度も出てきますね。
好きだったのか、それとも単に興味のあるジャンルだったのでしょうか。

たしかにギャンブルって人の心理を読み解くには面白い素材ですよね。


【原文】

「博奕の負け極まりて、殘りなくうち入れむとせむに逢ひては、打つべからず。立ち歸り、続けて勝つべき時の至れると知るべし。その時を知るを、よき博奕といふなり」と、あるもの申しき。


検:第126段 第126段 ばくちの負けきはまりて 博奕の負け極まりて ばくちの負極まりて

第百二十五段 人に先立たれて、四十九日の仏事に

人に先立たれて、四十九日の仏事に、ある僧をお招きした時、説法がすばらしくて、みんな涙を流したのね
僧侶が帰った後、聞いてた人たちが、「いつにも増して、特に今日は尊いお話に思えました」と感心し合ってたのに答えて、ある人が言うには「何ちゅうても、あんなに中国犬に似てはるんやから(そりゃ、尊いはずですがな)」と言ったんで、感動も冷めておかしかった
そんな僧のほめ方あるかい!

また「人にお酒をすすめるとき、自分がまず飲んで人に強引に飲ませようとするのは、剣で人を斬ろうとするのに似た事ですわね。諸刃の剣だったら、持ち上げる時、先に自分の首を斬っちゃうから、人を斬ることができないですもんね。自分がまず酔って倒れちゃったら、人はまさか召しあがらないでしょ」と申したのよ
剣で斬ってみたことあるんかい! めっちゃおもろかった


----------訳者の戯言---------

久々に、すべらない話。


【原文】

人に後れて、四十九日の佛事に、ある聖を請じ侍りしに、説法いみじくして皆人涙を流しけり。導師かへりて後、聽聞の人ども、「いつよりも、殊に今日は尊くおぼえ侍りつる」と感じあへりし返り事に、ある者の曰く、「何とも候へ、あれほど唐の狗に似候ひなむ上は」と言ひたりしに、あはれもさめてをかしかりけり。さる導師のほめやうやはあるべき。

また「人に酒勸むるとて、おのれまづたべて人に強ひ奉らんとするは、劒にて人を斬らむとするに似たる事なり。二方に刃つきたるものなれば、もたぐる時、まづ我が頚を斬るゆゑに、人をばえ斬らぬなり。おのれまづ醉ひて臥しなば、人はよも召さじ」と申しき。劒にて斬り試みたりけるにや。いとをかしかりき。


検:第125段 第125段 人に後れて、四十九日の仏事に 人におくれて、四十九日の仏事に

第百二十四段 是法法師

是法法師は、浄土宗の中で恥ずかしくない、立派な人だけど、学がある風にふるまわず、ただ明けても暮れても念仏して、やすらかに世を過ごす様子で、とてもそうありたいと思う存在なのです


----------訳者の戯言---------

そうですかとしか言いようがない。
立派な人だとは思うけど。


【原文】

是法法師は、淨土宗に恥ぢずと雖も、學匠をたてず、たゞ明暮念佛して、やすらかに世を過すありさま、いとあらまほし。


検:第124段 第124段 是法法師は

第百二十三段 四つの事を

役に立たないことをして時を過ごす人を、愚かな人とも、理屈にあわない事をする人とも言うべきだよね
国のため、君主のために、絶対にやるべき事は多いよ
だからそれ以外のプライベートの時間は、どれほども無いんです

考えてもみなよ、人間としてどうしても必要なのは、第一に食べ物、第二に着る物、第三に住む所だよね
人間にとっての大事は、この三つに勝るものはない
飢えず、寒く無く、風雨にさらされず、静かに過ごすのを楽しみとするものなんだ
ただし、人はみんな病気にかかることがあるよね
病気に冒されたら、その嘆き苦しみは耐えられないもの
だから医療を忘れてはいけないよ

衣食住に薬(医療)を加えて、合わせて四つの事を、求めても得られないのが「貧しい」ということになるんだよね
この四つ全部満たしてるのが「富んでいる」ということなんだ
この四つを満たした上で、これ以上のものを求めていろいろするのは「贅沢」ってことになるね
四つの事をつつましくできてれば、誰が足りないって思うだろう?(いやいや思わない、十分だよね)


----------訳者の戯言---------

衣食住+医で合わせて四つ。

前段でも出てきましたが、兼好法師、医療とか医学とかを重視する傾向。
第百十七段でも友だちにしたいのは医者とか書いてるし。

実は健康でいたいのか。
長生きは否定してるけど。

そして、贅沢はもちろん否定。


【原文】

無益の事をなして時を移すを、愚かなる人とも、僻事する人ともいふべし。國の爲、君の爲に、止む事を得ずしてなすべき事多し。その餘りの暇、いくばくならず。思ふべし、人の身に止む事を得ずして營む所、第一に食ふ物、第二に著る物、第三に居る所なり。人間の大事、この三つには過ぎず。飢ゑず、寒からず、風雨に冒されずして、しづかに過すを樂しみとす。但し人皆病あり。病に冒されぬれば、その愁へ忍び難し。醫療を忘るべからず。藥を加へて、四つの事、求め得ざるを貧しとす。この四つ、缺けざるを富めりとす。この四つの外を求め營むを、驕とす。四つの事儉約ならば、誰の人か足らずとせん。


検:第123段 第123段 無益の事をなして時を移すを

第百二十二段 人の才能は

人の才能は、書物をよく読んでて、聖人の教えを理解してることを第一とします

次には字を書くこと、専門にまでする必要はないけど、これを習うべきだすね
学問をする時に都合いいから

その次に医術を学ぶべきだわね
自身の健康のためにも、人を助けたり、忠義と孝行の務めを果たすためにも、医術がないと実行できないでしょ

さらに次には、弓を射ること、馬に乗ること、これは六芸に出ています
必ずこれはやっておくべきだよね

文・武・医の道は、本当になくてはならないものなのだ
これを学ぼうっていう人を、無駄なことをしてるなんて言ってはいけません

そしてそしてその次に、食は人間にとって何より大切なもの
美味しく料理できる方法を知ってる人は、すごい長所があるってことだす

さらにまたまた次には、手先を使ってこまかな物を作る技は、あらゆることに役立つんだよね

これら以外のこともあるけど、いろいろなことがたくさんできるというのは、君子の恥とするところですね
詩歌を詠むのが上手で、楽器が上手いことは、優美で奥深い味わいのある分野なんで、君も臣もみんなこれを大事にするんだけど、とはいっても、今の世の中はこれができても世を治めることは、だんだんできなくなってきてるようです
金は優れてるといっても、鉄の利用価値が高いのにはかなわないことと似ているね


----------訳者の戯言---------

ツッコミどころが多くておもしろい段。

そもそも、やるべきこと多すぎです。
詰め込み教育
文学(仏教含む)、書、医学、武道(弓も馬術も)、料理、工作・工芸。
無理だろ、無理無理。
これだけのことが、(そこそこでも)全部できる人って見たことないですよ。
福山雅治でも難しいと思う。
孫さんもたぶんできないと思います。
池上さんでも、林先生も、宇治原も無理無理。

私なんか1コでもできないのに。

しかも、こんなにたくさんのことを、これくらいは最低限できるべきだよねーと言っておきながら、多能は政治家のトップとしては恥だっていうんですね。
上に立つ者はこまごましたことはやらずに、大局を知るべしってことなんだろうし、ま、これは中国の古典からひいてるんでしょうけど。
十分こまごましています、冒頭のとおりだと。

後半ではいわゆるクリエイターとか、ミュージシャンなんかはすごく尊敬もされるんだけど、政治家としてはダメっていうか「最近は次第に難しくなってるみたい」という言い方、してますね。
ってことは、昔はまあまあの歌人とか音楽家が、政治家としても活躍していたのか、ということになりますね。

たしかに昔の日本は貴族政治ですから、ええとこの坊ちゃんなんかは、子どもの時から詩歌も管弦もやってたわけで、それが大人になって政治家になることが多かったけど、最近はそういうもんでもないかなーってことかね。

で最後に書いてある「金」は何かというと、これに例えてるのがクリエイターとか、ミュージシャンとしての突出した才能、「鉄」というのは汎用的な能力、ということでしょう。

いろいろできた方がいいのか、むしろいろいろやらなくていいのか、政治家としてはどうなのか…
結論としては、何がよくて何がよくないのか、もやもやっとした感じになっています。


感想。
もっと考えをまとめて書け。


【原文】

人の才能は、文明らかにして、聖の教へを知れるを第一とす。次には手かく事、旨とする事はなくとも、これを習ふべし。學問に便りあらむ爲なり。次に醫術を習ふべし。身を養ひ、人を助け、忠孝のつとめも、醫にあらずばあるべからず。次に弓射、馬に乘る事、六藝に出せり。必ずこれを窺ふべし。文・武・醫の道、まことに缺けてはあるべからず。これを學ばんをば、いたづらなる人といふべからず。次に、食は人の天なり。よく味ひをとゝのへ知れる人、大きなる徳とすべし。次に、細工、よろづの要多し。

この外の事ども、多能は君子のはづるところなり。詩歌にたくみに、絲竹に妙なるは、幽玄の道、君臣これを重くすとはいへども、今の世には、これをもちて世を治むること、漸く愚かなるに似たり。金はすぐれたれども、鐵の益多きに如かざるがごとし。


検:第122段 第122段 人の才能は、文明らかにして

第百二十一段 養い飼うものとしては、馬と牛

養い飼うものとしては、馬と牛だよね
つないで苦しめるのは痛ましくて嫌だけど、無くてはならないものなので、仕方ないです
犬は家を守り防ぐ任務が、人より勝ってるから、必ず飼うべきですよ
けど、どの家にでもいるから、わざわざ飼わなくてもいいでしょうね

その他の鳥や獣は、すべて飼う必要ないものなんだよな
走る獣は檻に閉じ込められ、鎖につながれ、飛ぶ鳥は翼を切り、籠に入れられてしまって、
雲を恋しがり、野山を思う愁いが、やむ時がありませんね
そんな思いを、自分自身にあてはめて耐えられないなら、心ある人は、これを楽しめるだろうか(楽しめないよね)

生き物を苦しめて目を喜ばせるのは、古代の暴君の桀や紂の心持ちとおんなじだよ
王子猷が鳥を愛したのは、林に遊ぶのを見て、そぞろ歩きの友としたんだよね
捕まえて苦しめるためではありません

総じて「珍しい鳥、変った獣は、国内で育てない」と、本にも書いてあるとおりだよね


----------訳者の戯言---------

犬は飼うべきなのか、飼わなくていいのか。
どっちやねん!
それと、当時、猫はどうだったのかも気になりますね。
猫、完全無視。

桀(けつ)、紂(ちゅう)というのは、いずれも古代中国の暴虐非道な帝王なのだそうです。

で、王子猷って誰?って話ですが、ま、中国の人らしい。本名は王徽之といって王羲之という高名な書家の子どもであり、この人自身も書家、そして文人であったらしいです。生活のための仕事なんかせず、花鳥風月を愛した人のようですね。
子猷っていうのは字(あざな)です。

で、字(あざな)って何よ?

中国では別名っていうか、あだ名っていうか、普通はこっちが使われるんですが、親とか主君とかよっぽど目上の人だけが諱(本名の方の名前)を使うのが常識だったらしいですね。
自分を名乗るときも諱(名)を言うらしい。
それ以外の人が本名で呼ぶのは無礼なことだった、とウィキペディアに書いてあります。

ということは、「偉さ」からすると、諱<字 ということになりますね。

例えば「諸葛-亮」は「諸葛」が姓、「亮」が諱(名)であり、字を「孔明」といいます。
ただ、主君の劉備は本来は「亮くん」って呼ぶべきなんですが、「孔明くん」って呼んでいたりもします。
この場合は、逆に劉備諸葛亮に並々ならぬ敬意を持っているということだそうです。

無礼=ぞんざいである=親近感
敬意をもってる=距離が遠い

ということが言えます。
日本語における敬語の使い方もそうなのですが、微妙な「距離感」が現れるんでしょうね。


【原文】

養ひ飼ふものには馬・牛。繋ぎ苦しむるこそ痛ましけれど、なくて叶はぬ物なれば、如何はせむ。犬は、守り防ぐつとめ、人にも優りたれば、必ずあるべし。されど、家毎にあるものなれば、ことさらに求め飼はずともありなん。

その外の鳥・獸、すべて用なきものなり。走る獸は檻にこめ、鎖をさされ、飛ぶ鳥は翼を切り、籠に入れられて、雲を戀ひ、野山を思ふ愁へ、やむ時なし。その思ひ我が身にあたりて忍び難くは、心あらん人、これを樂しまんや。生を苦しめて目を喜ばしむるは、桀・紂が心なり。王子猷が鳥を愛せし、林に樂しぶを見て逍遥の友としき。捕へ苦しめたるにあらず。

凡そ、「珍しき鳥、怪しき獸、國に養はず」とこそ文にも侍るなれ。


検:第121段 第121段 養ひ飼ふものには馬・牛

第百二十段 中国の物は薬以外は

中国の物は薬以外は全部無くても問題ないだろうね
書物はこの国に多く広まっているので、書き写すこともできるでしょ
中国の船が、険しい航路にもかかわらず、いらない物を積んで、船いっぱいに載せて次々と渡ってくるのは、すごく愚かなことだよね

「遠くにある物だからといって宝だと思わないように」とも、また「手に入れにくいものを宝だといってありがたがらない」とも、本に書いてあるそうです


----------訳者の戯言---------

輸入物、海外ブランドとかをやたらとありがたがる人って、いますいます。

今は別の意味で中国産、中国製はどーかな?と言う人もいたりします。

逆に中国の人が、メリーズとか雪肌粋の洗顔クリームとか龍角散を爆買いしていったりもしますね!


【原文】

唐の物は、藥の外は、みななくとも事欠くまじ。書どもは、この國に多く広まりぬれば、書きも寫してん。唐土船の、たやすからぬ道に、無用のものどものみ取り積みて、所狹く渡しもて來る、いと愚かなり。

「遠きものを寶とせず」とも、また、「得がたき寶をたふとまず」とも、書にも侍るとかや。


検:第120段 第120段 唐の物は、薬の外は、みななくとも事欠くまじ

第百十九段 鎌倉の海にいる鰹という魚は

鎌倉の海にいる鰹(かつお)という魚は、あの地方では比べもののない物として、最近もてはやされてるものです
それも、鎌倉の年寄りが申しましたのは「この魚は、私たちが若かった頃までは、身分の高い人の前に出す事はありませんでした。頭は身分の低い者も食べず、切り捨てたもんです」と申しました

このような物も、末法の世なので、上流社会まで入り込んでくるのです


----------訳者の戯言---------

最近だとニシンとか、マグロのトロとかもそうですよね。
昔はそんなに高級品じゃなかったのにっていう食べ物。

そのうち、サンマとかイワシとかサバとかも高級魚になっていくんでしょうかね。

ところで、「末法の世」ですが、一般には西暦1052年からと言われていますから、1330年だともうだいぶ経つんですけどね。
ここで出てくるお年寄りが若い頃、すでに末法の世だったはずなんですけどね、そういうことじゃないですか、そうですか。

相変わらず兼好法師、上流階級と身分低い者との差別意識ハンパなし。

それと、悪いこと、なんでもかんでも末法のせいにしちゃだめ。


【原文】

鎌倉の海に鰹といふ魚は、かの境には雙なきものにて、この頃もてなすものなり。それも、鎌倉の年寄の申し侍りしは、「この魚、おのれ等若かりし世までは、はかばかしき人の前へ出づること侍らざりき。頭は下部も食はず、切り捨て侍りしものなり」と申しき。

かやうの物も、世の末になれば、上ざままでも入りたつわざにこそ侍れ。


検:第119段 第119段 鎌倉の海に鰹といふ魚は