徒然草 現代語訳 吉田兼好

徒然草を現代語訳したり考えたりしてみる

吉田兼好の徒然草を現代の言葉で書いたり、読んで思ったことを書いています。誤訳や解釈の間違いがありましたらぜひご指摘ください。(序段---冒頭文から順番に書いています。検索窓に、第〇〇段、またはキーワードを入力していただけばブログ内検索していただけると思います)

第七十八段 最近流行してるまだ珍しいことを

最近流行してるまだ珍しいことを言いふらして、もてはやしたりするのは、これまたいただけませんな
そんな流りモノなんか世の中に知れ渡るまで知らないくらいの人のほうが奥ゆかしいってもんですよ
新人が入ってきた時、自分たちだけが使い慣れた言い方、物の名前なんかを、わかってる仲間同士で略語で言い合って、目を見合わせて、笑ったりして、意味がわからない人を戸惑わせるなんてことは、世間知らずで教養のない人が、必ずやる事だよね


----------訳者の戯言---------

自分は最先端、とか思って、トレンドを偉そぶって語ったりするのは見苦しいっすよ。
そんなの当たり前になってからでいいじゃん。

業界用語とか社内用語とかを混じえて、これ見よがし、聞こえよがしにしゃべってるのだって、たしかに頭悪そうにしか見えないものね。


【原文】

今樣の事どもの珍しきを、いひ廣め、もてなすこそ、又うけられね。世にこと古りたるまで知らぬ人は、心にくし。今更の人などのある時、こゝもとに言ひつけたる言種、物の名など心得たるどち、片端言ひかはし、目見あはせ、笑ひなどして、心しらぬ人に心得ず思はすること、世なれず、よからぬ人の、必ずあることなり。

 

検:第78段 第78段 今様の事どものめづらしきをを言い広め 今様の事どもの珍しきを言い広め

第七十七段 その頃みんなの話題になってる事に

世の中で、その頃みんなの話題になってる事に、直接関係してるはずもない人なのに、よく事情を知ってて、人に言いふらしたり、逆にヒアリング取材してるのは納得できませんね
特に片田舎の修行僧なんかが、世間の人の身の上について、自分のことみたいに調査して、なんでそこまで知ってるの?と思えるくらい、言いふらしまくるようなんですよ


----------訳者の戯言---------

お坊さん批判、第2弾。
まるで芸能レポーター


【原文】

世の中に、そのころ人のもてあつかひぐさに言ひあへること、いろふべきにはあらぬ人の、よく案内知りて、人にも語り聞かせ、問ひ聞きたるこそうけられね。ことに、かたほとりなる聖法師などぞ、世の人の上は、わがことと尋ね聞き、如何でかばかりは知りけむと覺ゆるまでぞ、言ひ散らすめる。

 

検:第77段 第77段 世の中に、その比人のもてあつかひぐさに言ひあへる事 世の中にその比人のもてあつかひぐさに言ひあへる事

第七十六段 聖なる法師が混じって

世間の評価が高く華やかな暮らしをしている人のところに、慶弔時、多くの人が訪れてる中で、聖なる法師が混じって取次を頼んでたたずんでいるのは、そんなことしなくてもいいのにと思います
しかるべき理由があったとしても、僧侶というのは俗世間の人からは距離を置いてほしいんだよね


----------訳者の戯言---------

お坊さんはそこまでせんとあかんのか。
兼好法師、厳しいな。


【原文】

世の覚え花やかなるあたりに、嘆きも喜びもありて、人多く往きとぶらふ中に、聖法師の交りて、いひ入れ佇みたるこそ、さらずともと見ゆれ。

さるべきゆゑありとも、法師は人にうとくてありなん。

 

検:第76段 第76段 世の覚え華やかなるあたりに 世の覚え花やかなるあたりに

第七十五段 やることが無くてヒマなのが苦痛

やることが無くてヒマなのが苦痛っていう人は、どういう気持ちなんだろう
心が惑わされるものも無くて、ただ一人でいることこそ、ほんとはいいことなんだけどね
世間に合わせてばかりいたら、心が俗世のホコリにまみれて惑わされやすくなっちゃって、人と交わると自分の言葉を相手がどう受け取るかばっかり気になって、ありのままの正直な心ではいられなくなるんですよ

人と戯れたり、相手と争ったり、恨んでみたり、喜んでみたり
そんな心の動きって、安定することが無いんですよね
やたらあれこれ考えて、損得勘定ばっかりするのです

迷いながら、酔っぱらってるんですよ
酔っぱらいながら、夢を見てるんですよ
走り回って忙しくしてるけど、ぼうっとして肝心なことを忘れてるって、誰でもみんなこんなものなんだよね

まだ真理に至る道を知らなくても、俗世との縁を離れて身を静かにし、物事へ関わりを避けて心を安らかにするのが、せめて一時だけでも楽しむことなんだ、って言えるでしょうに
「生活、人事、技能、学問のあらゆる縁を断ち切りなさい」と「摩訶止観」にも書いてあります


----------訳者の戯言---------

「摩訶止観」というのは、「仏教の論書の1つで、止観(止は三昧、観は智慧。仏教瞑想はこの2つから成る。上座部仏教でいうサマータとヴィパッサナー)についての解説書。10巻。594年に中国荊州(現在の湖北省)玉泉寺で天台智顗によって講義され、弟子の章安灌頂によってまとめられた。天台三大部の1つ」
ウィキペディアに書かれています。

なんか難しいな!


【原文】

つれづれわぶる人は、いかなる心ならむ。紛るゝ方なく、唯一人あるのみこそよけれ。

世に從へば、心外の塵にうばはれて惑ひ易く、人に交はれば、言葉よそのききに隨ひて、さながら心にあらず。人に戲れ、物に爭ひ、一度は恨み、一度は喜ぶ。そのこと定れることなし。分別妄りに起りて、得失やむ時なし。惑ひの上に醉へり、醉の中に夢をなす。走りていそがはしく、ほれて忘れたること、人皆かくのごとし。

いまだ誠の道を知らずとも、縁を離れて身を閑にし、事に與らずして心を安くせんこそ、暫く樂しぶともいひつべけれ。「生活・人事・技能・學問等の諸縁を止めよ」とこそ、摩訶止觀にも侍れ。

 

検:第75段 第75段 つれづれわぶる人は

第七十四段 蟻のように集まって

蟻のように集まって東西に急ぎ南北に走る
身分の高い者あり低い者あり
老いた人あり若い人あり
行く所あり帰る家あり
夜寝て朝起きる
人の営みって何なんだろう
やたらと生に執着し 金を求めてやまない

身を養って何を待つっていうんだろう
結局行きつくところ
ただ老いと死となのにさ
そんなことすぐにやってくるものだし
一瞬で過ぎ去ってしまうものなんだよ
これを待つ間 何の楽しみがあるのだろう

※世俗にまみれている者はこれを恐れない
 名声や金に溺れて
 死の近いことを顧みないからなのさ
 愚か者はこれを悲しむ
 不死でありたいと願うばかりで
 物は変化するという道理を知らないからさ

      ※repeat


----------訳者の戯言---------

メッセージソング的。
ボブ・ディランとかの感じですか。

というわけで、今回は歌詞風(訳詞風)に訳して、それっぽく改行してみました。
何となくかっこいい。

3段落目はサビなので2回リピートでお願いします。


【原文】

蟻の如くに集りて、東西に急ぎ、南北に走る。貴きあり、賎しきあり。老いたるあり、若きあり。行く所あり、歸る家あり。夕に寝ねて、朝に起く。營む所何事ぞや。生を貪り、利を求めてやむ時なし。

身を養ひて何事をか待つ、期するところ、たゞ老と死とにあり。その來る事速かにして、念々の間に留まらず。これを待つ間、何の樂しみかあらむ。惑へるものはこれを恐れず。名利に溺れて、先途の近きことを顧みねばなり。愚かなる人は、またこれをかなしぶ。常住ならんことを思ひて、變化の理を知らねばなり。

 

検:第74段 第74段 蟻のごとくに集まりて 蟻の如くに集まりて

第七十三段 嘘が多い世の中です

世に語り伝えられてる事は、本当のことだと面白くないからなのかな、だいたいはみんな作り話です
実際以上に大げさに人は作りごとを言うし、まして、年月が経って、場所も離れてるんだから、言いたいままに語って、それを書面にしちゃうと、すぐにまた定説になってしまうんですよ

各専門分野の達人が立派!っていう話も、物の道理がよくわかってなくて、しかもその分野のことを知らない人なんかは、やたらと「神!」みたいに言うけど、その分野のことを知っている人はそんなの全然信じようとはしないですよね
評判を聞くのと実際に見るのとは、何事も違っているもんなんですよ

一方、すぐばれるのを気にもしないで、口から出まかせを言い散らかすのは、すぐに根拠の無い話だってことがわかっちゃう
また、自分も嘘っぽいよなーとは思いながら、人が言うままに鼻をひくひくさせて言うのは、その人自身の作り話じゃないんだけどね

本当っぽい感じで、でも、ところどころ話をぼやかして、よくは知らないふりをして、そうは言いながらも、辻褄を合わせて語られた嘘というのは恐ろしいものです

自分の名誉が保たれるように言われた嘘は、誰だってそんなには否定しないです
みんなが面白がってる嘘だと、一人だけ「なわけないだろ」なんて言っても仕方ないから、そのまま聞いてたら自分が証人にまでされちゃって、いよいよホンマのことになってしまう、なんてね

とにもかくにも、嘘が多い世の中です
ただ日常的な、珍しくもない、そんな平常のあるがままに考えれば、すべて間違えることはありません
身分の低い人の語る物語は、耳がびっくりするようなのばっかりです
教養のある人は怪しい事を語りませんからね

そうはいっても、仏や神のありがたい施しや、聖人や高僧など、神や仏が現世に降りて来られた時の逸話などは、そうそう疑うべきものではありません
こういう話は、世俗の虚言として心から信じるのもアホらしいし、でも「ありえない」など言っても仕方ないので、ほとんどは事実として認めた上で、しかし、めっちゃ信じ込んで傾倒し過ぎてもだめだし、また逆に疑って見下したりしてもいけないんだからね


----------訳者の戯言---------

おっしゃるとおりです。

が、しかし。
毎回思うけど、この時代は、身分差別ハンパないですね。
身分低い者に対するダメ出しが過剰で。それはいいのか? いや、だめでしょう。(反語法で!)
ポリティカル・コレクトネスの観点から言うと、だめだめでしょ、兼好法師
いやまー鎌倉時代なので仕方ないんですけどね、当時の社会では普通だったと。

ただ、でもね、訳すだけでも、なんだかモヤモヤした気分にはなるものですね。


【原文】

世にかたり傳ふる事、誠は愛なきにや、多くは皆虚言なり。

あるにも過ぎて、人はものをいひなすに、まして年月すぎ、境も隔たりぬれば、言いたき侭に語りなして、筆にも書き留めぬれば、やがて定りぬ。道々のものの上手のいみじき事など、かたくななる人の、その道知らぬは、そゞろに神の如くにいへども、道知れる人は更に信も起さず。音にきくと見る時とは、何事も變るものなり。

かつ顯はるゝも顧みず、口に任せていひちらすは、やがて浮きたることと聞ゆ。又、我も誠しからずは思ひながら、人のいひしままに、鼻の程をごめきて言ふは、その人の虚言にはあらず。げにげにしく所々うちおぼめき、能く知らぬよしして、さりながら、つまづま合せて語る虚言は、恐ろしき事なり。わがため面目あるやうに言はれぬる虚言は、人いたくあらがはず、皆人の興ずる虚言は、一人「さもなかりしものを」と言はんも詮なくて、聞き居たる程に、證人にさへなされて、いとゞ定りぬべし。

とにもかくにも、虚言多き世なり。ただ、常にある、珍しからぬ事のままに心えたらん、よろづ違ふべからず。下ざまの人のものがたりは、耳驚くことのみあり。よき人はあやしき事を語らず。

かくは言へど、佛神の奇特、權者の傳記、さのみ信ぜざるべきにもあらず。これは世俗の虚言を懇に信じたるも をこがましく、「よもあらじ」などいふも詮なければ、大方は誠しくあひしらひて、偏に信ぜず、また疑ひ嘲るべからず。

 

検:第73段 第73段 世に語り伝ふる事、まことはあいなきにや

第七十二段 下品っぽいものとは

下品っぽいものとは
座ってるあたりに道具類が多いこと
硯に筆が多いこと
持仏堂に仏像が多いこと
庭の前の植え込みに石や草木が多いこと
家の中に子や孫が多いこと
人に会って言葉数が多いこと
神に奉納する願文に自分の善い行いをいっぱい記載してること

多くて見苦しくないのは、文車に書物が多いこと
ゴミ捨て場にゴミが多いこと


----------訳者の戯言---------

シンプル・イズ・ベストということでしょうか。
だいたい、多いのが嫌いなのね、兼好。

ところで、オチの部分ですが、ゴミ捨て場にゴミが多いのはいいことなんでしょうか?
今だってゴミの減量化や資源化が言われてるわけですからね。
それともボケですか?

とも一瞬思ったんですが、ゴミは経済状態の良否を表すものでもありますからね。行き過ぎると問題なわけですが、当時の社会においてはゴミの集積場は豊かさの象徴だったのかもしれません。
それにゴミ捨て場にゴミが集まっているのは、他に散乱しているよりは道徳的にも好ましいですから、そういったことを兼好法師は指摘しているのでしょうか。


【原文】

賎しげなるもの。居たるあたりに調度の多き、硯に筆の多き、持佛堂に佛の多き、前栽に石・草木の多き、家のうちに子孫の多き、人にあひて詞の多き、願文に作善多く書き載せたる。

多くて見苦しからぬは、文車の文、塵塚の塵。

 

検:第72段 第72段 賤しげなるもの 賤しげなる物

第七十一段 名前を聞いたらすぐにルックスが

名前を聞いたらすぐにルックスがイメージできるようにも思うんだけど、実際に会ったら、事前に思ってたまんまの顔をしてる人っていないよね

昔のお話を聞いて、今の家のこの辺の感じなんかなーと思ったり、人に関しても今いる人でいえばこんな人かなーと思いなぞらえるのは、誰でもがこんな感じで思ってるんでしょうかね
また、どんな時だったか、人の言う事も、目に見える物も、自分の心の内も、こんな事って前いつだったかあったよなあと思えて、いつとは思い出せないんだけど、確かにあった気がするのは、私だけこう思うのでしょうかね


----------訳者の戯言---------

デジャヴ。

ちなみにGACKTの本名は岡部(大城)学(さとる)。aikoの本名は柳井愛子。

たしかに昔のドラマとか映画とか見て「今で言うたら、〇〇みたいなもんや」とかって言うよね。


【原文】

名を聞くより、やがて面影はおしはからるゝ心地するを、見る時は、又かねて思ひつるまゝの顔したる人こそなけれ。昔物語を聞きても、この頃の人の家のそこ程にてぞありけむと覺え、人も、今見る人の中に思ひよそへらるゝは、誰もかく覺ゆるにや。

またいかなる折ぞ、たゞ今人のいふことも、目に見ゆるものも、わが心のうちも、かゝる事のいつぞやありしがと覺えて、いつとは思ひ出でねども、まさしくありし心地のするは、我ばかりかく思ふにや。

 

検:第71段 第71段 名を聞くより、やがて面影はおしはからるる心地するを 名を聞くよりやがて面影は

第七十段 琵琶の柱

元応年間、後醍醐天皇が御即位された時、清暑堂で催馬楽が開催されたんやけど、ちょうど琵琶の名器「玄上」が無くなってた頃だったので、菊亭大臣の藤原兼季様が同じく名器「牧馬」をお弾きになったんだけど、座に着いて、まず柱(じゅう)をお探りになったが、一つはずれてしまったの
ですが、懐に「そくひ」っていう糊をお持ちだったんで、それでくっつけたら、お供え物が届く頃には乾いて大丈夫でした

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何か意図することがあったのか、頭から衣被(きぬかづき)を被った女が、近づいて琵琶の柱をはずして、元どおりに置いたそうなんだよ

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----------訳者の戯言---------

嫌がらせですか? 何かの陰謀ですか?
とりあえず、現代でもアロンアルファとかは持っといたほうがいいのかもしれない。

しかし、名器っていうのは琵琶にもあるんですね。
ストラディヴァリウスデュランティとかストラディヴァリウス・ドルフィンみたいなもんでしょうか。名前もちゃんと付いているんですね。

「柱」というのは、ギターで言えばフレットのことなんですね。ネックの指板を分割するようにはめこまれてる金属、琵琶なら木製?のパーツです。

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【原文】

玄應の清暑堂の御遊に、玄上は失せにしころ、菊亭の大臣、牧馬を彈じ給ひけるに、座につきてまづ柱を探られたりければ、ひとつ落ちにけり。御懐に續飯をもち給ひたるにて付けられにければ、神供の參るほどに よく干て、事故なかりけり。

いかなる意趣かありけん、物見ける衣被の、寄りて放ちて、もとのやうに置きたりけるとぞ。

 

検:第70段 第70段 元応の清暑堂の御遊びに 元応の清暑堂の御遊に

第六十九段 豆の殻を燃やして

書写山円教寺の(性空)上人は、法華経を読んだ功が積み重ねられて、人間をまどわす六つの感覚器官「六根」(眼・耳・鼻・舌・身・意)がすべて浄化された人です
旅先で仮の宿に立ち入った時に、豆の殻を燃やしてその火で、鍋の豆を煮る音がつぶつぶと鳴るのをお聴きになって「同じ豆から生まれた、他人でないお前たち(豆殻)よ、恨めしくも私(豆)を煮て、辛い目を見せるのかい」と言ったと
燃やされるれる豆殻がはらはらと鳴る音のほうは「本意じゃないんだよ。自分の身が焼かれるのはどうにも耐えがたいけど、力が無いのでどうしようもない。そんなに恨まないでくださいよ」と聞こえたということですよ


----------訳者の戯言---------

豆と豆殻は兄弟みたいなもんです。
そりゃ辛い。わかるよ、その気持ち。


【原文】

書寫の上人は、法華讀誦の功積りて、六根淨にかなへる人なりけり。旅の假屋に立ち入られけるに、豆の殻を焚きて豆を煮ける音の、つぶつぶと鳴るを聞き給ひければ、「疎からぬ己等しも、恨めしく我をば煮て、辛き目を見するものかな」と言ひけり。焚かるゝ豆がらのはらはらと鳴る音は、「我が心よりする事かは。燒かるゝはいかばかり堪へがたけれども、力なきことなり。かくな恨み給ひそ」とぞ聞えける。

 

検:第69段 第69段 書写の上人は