徒然草 現代語訳 吉田兼好

徒然草を現代語訳したり考えたりしてみる

吉田兼好の徒然草を現代の言葉で書いたり、読んで思ったことを書いています。誤訳や解釈の間違いがありましたらぜひご指摘ください。(序段---冒頭文から順番に書いています。検索窓に、第〇〇段、またはキーワードを入力していただけばブログ内検索していただけると思います)

第二百十段 喚子鳥(よぶこどり)は春の物である

「喚子鳥(よぶこどり)は春の物である」とだけは言われてて、でもどんな鳥なのか、明確に書かれた物は無いんだ
ある真言宗の本の中に、喚子鳥が鳴く時に死者の魂を招いて供養する法を行うやり方が載ってるの
でもこれは鵺(ぬえ=トラツグミ)のことなのね
万葉集長歌の「霞立つ長き春日の」の続きの部分にも歌われてます
鵺鳥も喚子鳥の様子に似通ってると思うんだよ


----------訳者の戯言---------

喚子鳥(よぶこどり)というのは、カッコウもしくはホトトギスではないかと言われています。どちらかというとカッコウ説が有力らしい。
けど、それもよくわかってはないらしいんですね。本にも書いてないって兼好も書いてます。

ただ、「古今伝授」では、喚子鳥は「稲負鳥(いなおほせどり)」「百千鳥(ももちどり)」と合わせて「三鳥」、その一つということにはなってるようですね。

では「古今伝授」って何ぞや?
「古今伝授」というのは、簡単にいうと「古今和歌集」の解釈についての秘伝、ということです。
そもそも「古今和歌集」というのは延喜5年(905)に編纂された最初の勅撰和歌集。つまり天皇の命によって編まれた当時最高レベルの歌集、とされています。
ま、それ以降の「和歌」っていうジャンルの基礎中の基礎、大もとになるもの、と言っていいでしょう。

この「『古今集』の解釈、和歌に関するノウハウ」というものが、金銭、あるいは名誉とか家格とかを含めて、独占的な利権みたいなものにつながってたのではないでしょうか。
だからこそ、所謂ノウハウの数々を秘伝、つまり企業秘密にしたのでしょうね。
実際、一切他言しないという誓約書を書いて、講義を受けて、ノートはとるけど、テキスト的なものはなく、メモとか、口伝えで継承していった、というのが本当らしいです。

今も秘伝のタレとかってあるじゃないですか。飲食店とかで。
ああいうのに近いのかもしれません。
あと、テレビの工場見学とかのロケ番組でも、ここから先は撮影NG、とかいうやつですね。

だから、古今和歌集の深いところの情報っていうのはクローズド、資料があんまり残ってないというわけなんです。
だって、現代でも「三鳥」が何なのかはっきりわからないんですから。

江戸時代のの国学者本居宣長なんかは「古今伝授大いに歌道のさまたげにて、此道の大厄也」と書いてます。たしかに、歌の良し悪しよりも歌道家の格式を重んじる風潮がまだあったみたいで「古今伝授」を厳しく批判しているようなんですよ。
たしかにおっしゃること、わかるような気がします。

芸術としても学問的にも閉鎖的なのはやはりだめでしょうね。

だから、なんで兼好が「喚子鳥」のことがハッキリわからないのかというと、そういうことなんですね。
ちなみに今わかってる範囲では「三鳥」のあと二つ、稲負鳥(いなおほせどり)はスズメ(?)、百千鳥(ももちどり)はウグイス(確定)だそうです。

さて、真言密教の本のほうでは喚子鳥と鵺(ぬえ)を混同して書かれていたもようです。
鵺は今の世の中では「トラツグミ」という鳥であることになっています。
しかし、なんで間違われたのかはよくはわかりません。
この鳥は森の中で夜中に細い声「ヒィー、ヒィー」「ヒョー、ヒョー」って鳴くので、夜ヘンに鳥と書いて、鵺または鵺鳥(ぬえどり)と呼ばれ、気味悪がられるようになったみたいなんですね。
まあそんな感じだから、死者をナントカってシーンにも登場させられちゃうのかもしれません。

で、実は「鵺」っていうのは「トラツグミ」っていう鳥だという認識は今も一般にあまり馴染みがなくて、むしろ、物の怪(もののけ)、妖(あやかし)の類の、架空の動物の名称としてよく知られるようになっています。
なんでかっていうと、この動物が鵺の声で鳴くと言われたからなんですね。
それで「あのあやかしは鵺である」となって、そっちの方がむしろ有名になってしまったというわけなんです。

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(左)鳥山石燕「今昔画図続百鬼」より (右)歌川国芳「京都 鵺 大尾」(「木曽街道六十九次」内)より

↑これが一般に鵺=ヌエと言われてる妖(あやかし)です。
いろいろ伝わっていますが、ここでは2コ紹介しておきます。
伝承としては「背が虎で足がタヌキ、尾はキツネ、頭がネコ、胴はニワトリ」「顔がサル、胴体がタヌキあるいはトラ、手足がトラ、尾はヘビ」等々さまざまです。

さて、「霞立つ長き春日の」から始まる長歌はたしかに万葉集にありました。
で、この後に続く歌詞の中に「ぬえ子鳥」が出てきます。
もちろん、あやかしじゃない方、トラツグミの方としてですね。

そして兼好としては、だから、喚子鳥(カッコウ)と鵺(トラツグミ)って雰囲気似てるんじゃね。
という結論に達しました。
しかし残念! 全然似てねーよ。
ほらね。

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(左)カッコウカッコウカッコウ科) (右)トラツグミ(スズメ目ツグミ科)


【原文】

「喚子鳥は春のものなり」と許りいひて、いかなる鳥ともさだかに記せる物なし。ある眞言書の中に、喚子鳥なくとき招魂の法をば行ふ次第あり。これは鵺なり。萬葉集長歌に、「霞たつ永き春日の」など續けたり。鵺鳥も喚子鳥の事樣に通ひて聞ゆ。


検:第210段 第210段 喚子鳥は春のものなりとばかり言ひて

第二百九段 田のことで訴訟に負けて

ある人が田のことで訴訟に負けて、逆恨みして「あの田んぼ刈り取って来て!」って、人を使ってやらかそうとしたんだけど、まず、そこに行く途中の田んぼも刈りながら行ってたんで、「これは訴訟で争ったとこじゃないじゃんよ。なんだそれ」と言ったところ、刈ってた者は「例のあそこの田んぼだって刈っていい理由はないけど、そもそも犯罪行為するように仕向けられてる者なんだから、どこだってやっちゃいますよ」だって!
理屈はめっちゃ素晴らしかったな


----------訳者の戯言---------

アウトレイジな方々。


【原文】

人の田を論ずるもの、訴へにまけて、嫉さに、「その田を刈りて取れ」とて、人をつかはしけるに、まづ、道すがらの田をさへ刈りもて行くを、「これは論じ給ふ所にあらず。いかにかくは」といひければ、刈るものども、「その所とても、刈るべき理なけれども、僻事せむとてまかるものなれば、いづくをか刈らざらん」とぞいひける。

理り、いとをかしかりけり。


検:第209段 第209段 人の田を論ずるもの、訴へに負けて 人の田を論ずる者 人の田を論ずるもの、訴へにまけて

第二百八段 経文などの紐を結ぶ時

経文などの紐を結ぶ時、上と下からたすき掛けにして、二筋の紐の中から、紐の先を横向きに引きだすのは、普通のことである
でも、そのようにしたのを、華厳院弘舜僧正は解いてやり直させたんだ
「これは最近のやり方だ。とてもみっともない。美しいのは、ただくるくると巻いて、上から下へ、紐の先をさしはさむべきだ」と申されたのね
古老であって、このようなことをご存知の方でございました


----------訳者の戯言---------

ビジュアルを全然イメージできないんですが、例えば実物を見たとしても、どっちでもいいような。

しかし兼好、伝統が大好き過ぎる。


【原文】

經文などの紐を結ふに、上下より襷にちがへて、二すぢの中より、わなの頭を横ざまにひき出すことは、常のことなり。さやうにしたるをば、華嚴院の弘舜僧正 解きて直させけり。「これは、この頃やうのことなり。いと見にくし。うるはしくは、たゞくるくると捲きて、上より下へ、わなの先を挿むべし」と申されけり。

ふるき人にて、かやうのこと知れる人になん侍りける。


検:第208段 第208段 経文などの紐を結ふに

第二百七段 亀山殿をお建てになるっていうことで

嵯峨院が亀山殿をお建てになるっていうことで、地ならしをしてた時、無数の大きな蛇が密集してる塚があったんだ
この地の神である、と言って、事の次第を申し上げた所、「どうしたものか」と院からご質問があったので、「古くからこの地を占めている物なので、簡単に掘り捨てることもできません」とみんなが申されたところ、この大臣(徳大寺実基)一人だけが「天皇の国の土に棲んでる虫が、皇居を建てられるのに、何の祟りをなすもんですか。鬼神は正しくないことはしないもの。気にすることないですよ。全部掘り捨てるべし!」と申されたので、塚を崩して、蛇を大井川に流したのね
しかしまったく祟りはありませんでした


----------訳者の戯言---------

亀山殿については第五十一段にも書かれてました。庭に水を引き入れる時のことでしたね。

「鬼神は邪無し」というのは、ことわざで、「神は正しくない事や曲がった事はしない」ということです。

前段とこの段は、徳大寺実基のアンチオカルト話の前後編となりました。
揺るぎないリアリストぶりがあっぱれで、気持ちいい。


【原文】

龜山殿建てられむとて、地を引かれけるに、大きなる蛇、數もしらず凝り集りたる塚ありけり。この所の神なりといひて、事の由申しければ、「いかゞあるべき」と敕問ありけるに、「ふるくよりこの地を占めたる物ならば、さうなく掘り捨てられがたし」とみな人申されけるに、この大臣一人、「王土に居らん蟲、皇居を建てられんに、何の祟りをかなすべき。鬼神は邪なし。咎むべからず。唯皆掘りすつべし」と申されたりければ、塚をくづして、蛇をば大井川に流してけり。更にたゝりなかりけり。


検:第207段 第207段 亀山殿建てられんとて、地を引かれけるに

第二百六段 牛が牛車からはずれて

今は亡き徳大寺の大臣殿(徳大寺公孝)が、検非違使庁の長官だった時、中門の渡り廊下で庁のミーティングが行われてたんだけど、下級役人の(中原)章兼の牛が牛車からはずれて、庁舎の中に入って、長官がお座りになる大理の座の浜床の上に登って、食べ物を反芻して横になってたんだ
重大な異常事態だってことで、牛を陰陽師に見てもらうべきだって、何人もが申し上げたのを、長官の父の太政大臣徳大寺実基)がお聞きになって、「牛に分別は無いですよ。足があれば、どこへでも上るだろう。ひ弱な役人が、たまたま出仕した時に連れてた痩せ牛を取り上げられなければならない理由は無いよ」と言って、牛を主人に返して、牛が寝転んだ畳を取り換えられたのね
でも全然不吉なことは無かったようだよ

「怪しいものを見て怪しまなければ、怪しいことは起こらなくなる」と言われてるのさ


----------訳者の戯言---------

当たり前じゃん。

徳大寺公孝は、第二十三段で「内侍所の女官が鳴らす鈴の音はなかなか優雅」って言った人。徳大寺実基はその父。

【原文】

徳大寺故大臣殿、檢非違使の別當のとき、中門にて使廳の評定行はれけるほどに、官人 章兼が牛はなれて、廳のうちへ入りて、大理の座の濱床の上にのぼりて、にれ うち噛みて臥したりけり。重き怪異なりとて、牛を陰陽師のもとへ遣すべきよし、おのおの申しけるを、父の相國聞きたまひて、「牛に分別なし、足あらば、いづくへかのぼらざらん。わう弱の官人、たまたま出仕の微牛をとらるべきやうなし」とて、牛をば主にかへして、臥したりける疊をばかへられにけり。あへて凶事なかりけるとなん。

「怪しみを見て怪しまざる時は、怪しみかへりて破る」といへり。

 

第二百五段 起請文というものは

比叡山で、伝教大師最澄)の御霊をお招きして書く「起請」というのは、慈恵僧正が書き始められたことなのね
起請文というものは、法律家は取り扱わないんだ
昔、聖なる方が治めた時代には、起請文に基いて行われる政治なんか全然なかったのに、近年は、このことが広まっちゃったんだよ

また、法令においては、水と火を特に穢れの対象にはしてないんだ
でも入れ物には穢れがあるに違いないとされてるんだよね


----------訳者の戯言---------

とはいうものの、起請文、結局、江戸時代頃までいろいろな形で続くんですよね。
兼好、残念でしたー。

起請文(きしょうもん)というのは、ネットで調べると、人が契約を交わす際、それを破らないことを神仏に誓う文書、というふうに解説されています。

ま、意味はよくわからないですけどね。
政治に宗教がからんでるみたいでもあり複雑です。

そして、最後の方の水と火の件もよくわかりません。
が、書いてあるとおりなんでしょう、たぶん。

それ以上のことは…誰か教えてください。
すみません。


【原文】

比叡山に、大師勸請の起請といふ事は、慈惠僧正 書きはじめ給ひけるなり。起請文といふ事、法曹にはその沙汰なし。古の聖代、すべて起請文につきて行はるゝ政はなきを、近代、このこと流布したるなり。

また法令には、水火に穢れをたてず、入物にはけがれあるべし。


検:第205段 第205段 比叡山に、大師勧請の起請といふ事は 比叡山に大師勧請の起請といふ事は

第二百四段 罪人を鞭で打つ時は


罪人を鞭で打つ時は、拷問器具に寄せて縛りつけるんだよ
でも拷問器具の様子も、引き寄せる方法も、今は知ってる人はいないってね


----------訳者の戯言---------

そんな怖いこと知らんでよろしい。

ちなみに「犯人」は当時「ぼんにん」と読んだらしいです。


【原文】

犯人を笞にて打つ時は、拷器によせて結ひつくるなり。拷器の様も、よする作法も、今はわきまへ知れる人なしとぞ。


検:第204段 第204段 犯人を笞にて打つ時は

第二百三段 天皇の命により謹慎処分を受けた人の家に靫(ゆぎ)をかける作法

天皇の命により謹慎処分を受けた人の家に靫(ゆぎ)をかける作法は、今は全然知ってる人もいないよ
天皇のご病気や、概ね世の中が不安定な時は、五条の天神に靫がかけられるんだ
鞍馬の由岐の明神というのも、靫をかけられた神社だよ
看督長が背負った靫を、その家にかけられたら、人が出入りできなくなるんだよね
この習慣が無くなって以降、今の時代には、門に封印をすることになったんだよ


----------訳者の戯言---------

いろいろ調べました。
「靫(ゆぎ)」というのは、矢を入れる細長い箱だそうです。

これを犯罪者の家に掛けて目印にしたんでしょうか。
怖えー。
犯罪者には基本的人権なし、というわけですか。
人が出入りすることも禁止したということですね。監禁?
ま、兼好法師の時代には無くなってたようですけどね。
ただ、後述しますけど、見せしめというより、呪術的な意味合いがあったのかもしれません。

そして、五条天神社です。
天皇のご病気とか、国に災いがあった際に、その責任を取って「流罪に処す」として、この神社の扉に靫を架けて閉じる、っていうことが行われていたんですね。
神社がですよ!
神社なのに犯罪者扱いか!?

で、由岐(ゆぎorゆき)の明神(現在の由岐神社)も同様に靫をかけられたと。
由岐神社というと、鞍馬の火祭で有名。鞍馬寺の鎮守社です。
そもそも「靫明神」と言う名前から「由岐明神」→「由岐神社」になったようですね。
神社名自体が、天皇の病や国難時に神前に靫を献じて平穏を祈ったから、こう付けられたらしいです。

となると、靫がいい物なのか悪いものなのかも、よくわからないんです。
治めたり、清めたりするものなのでしょうか。良からぬものを封印するものなのでしょうか。

というわけで、よーわからんというのが結論。
わざわざ調べるんじゃなかった…。

「看督長(かどのおさ)」は、検非違使の下級役人で、強制執行とかする役の人です。
検非違使」はこれまでに何回か出てきましたけど、当時の警察的な存在です。

どうでもいいですか、そうですか。


【原文】

勅勘の所に靫かくる作法、今は絶えて知れる人なし。主上の御惱、大かた世の中のさわがしき時は、五條の天神に靫をかけらる。鞍馬に靫の明神といふも、靫かけられたりける神なり。看督長の負ひたる靫を、その家にかけられぬれば、人出で入らず。この事絶えて後、今の世には、封をつくることになりにけり。


検:第203段 第203段 勅勘の所に靫かくる作法 勅勘の所に靫懸くる作法

第二百二段 十月を神無月と言って

十月を神無月と言って、神事を敬遠すべきってことは、書いてある書物が無いんです
根拠となる文献もありません
ただ、この十月はどの神社も祭りをしないから、この名があるんでしょうか

この月、全部の神々が、伊勢の皇大神宮へ集われるという説がありますけど、その明確な根拠はないんです
そういうことなら、伊勢では特に祭の月とすべきところだけど、その例もありませんしね
十月にいろいろな神社に天皇行幸される例は多いんです
でも、その多くは不吉な事例なのでした


----------訳者の戯言---------

伊勢神宮ですか?
出雲大社じゃなく?
と思ったので調べてみました。

そもそも、旧暦十月を「神無月」と言ったこと自体がまず怪しい、根拠不詳とのこと。
むしろ、「神の月」を語源とする説の方が有力らしいです。つまり「神の月」→「神な月」→「神無月」と転じた説ですね。
(同様に旧暦六月「水無月」も「水の月」説が有力)

なので、まず、神様が不在となる根拠がないというのは、兼好法師の言うとおりかもしれません。

だいたい、10~11月と言えば全国的に秋祭りのシーズンですからね。
ま、神様が各地にいなくなるというのはそもそもおかしい理屈ではあります。

では先にまず一つ疑問を片付けましょう。
出雲大社に神様が集合する説ですが、これはそれほど起源の古い話ではないようで、出雲大社側のプロモーションである、というのが有力なようです。
この説が出た時代は中世以降とされていますから、鎌倉時代以降です。
つまり、それまでは神々がどこかに集まるという話はなかったと。
「神無月」という名前にひっかけて、これ逆にみんな出雲大社に来てることにしたら、参詣客集まるんじゃね?
ということらしい。

話は戻りますが、10月というのは米をはじめとして穀物の収穫時期でありまして、各地で収穫祭、つまり秋祭りが行われます。
その大もとは、やはり天照大神を祀っている伊勢の皇大神宮であって、その年の初穂を奉納する「神嘗祭」というのがあるんですね。昔は旧暦9月17日にやってたみたいです。
新暦ではだいたい10月後半とかですね。今年の例で行くと旧暦9月17日は太陽暦10月25日となっています。

明治以降、日本の暦は新暦太陽暦に変わったんですが、しばらくは太陽暦9月17日にやってたらしいです。しかし、それだと米の収穫がまだできないこともあったりして、困りますよね、当然。で、1カ月ずらして10月17日にしたんだって。安易だ。そもそも、そこ、旧暦でいいやん、と思います。

で、もう一つ、新嘗祭というのもあります。
今の勤労感謝の日です。
11月23日ですが、これ、元々は旧暦11月の二回目の卯の日(旧暦11月13日~11月24日のいずれかが該当)だったらしい。
秋の感謝祭ですね。

ですから、昔の日本では今の10月頃(旧暦9月)、今の12月後半あたり(旧暦11月)の2回、五穀豊穣を祈り感謝する類の大きな祭祀が行われたということです。
これは私論ですが、旧暦10月が空いていたから「神無月」なんて言われたのかもしれませんね。

2回も秋祭りあるんですね、とも思ったんですが、それはまあいろいろ都合があるんでしょうね。
神嘗祭伊勢神宮の行事、新嘗祭宮中行事ですから。
アメリカでも、ハロウィンとサンクスギビングデーがありますしね。
ま、ちょっと違いますけど。でもまあ歴史や文化、宗教なんかによって、こういうのって変わるもんや、ということですよ。

さて、伊勢神宮ですが、実は伊勢の神宮には正宮が2つあるのはよく知られています。
所謂、外宮が豊受大神宮、内宮と呼ばれているのが皇大神宮です。

で、本題ですが、結局のところ、10月に神社に神様がいないとか、伊勢にはいらっしゃるとか、そういうの根拠ないし、ってことですね。
年代的には、出雲大社のプロモもはじまってたとも言われる頃なので、混同もあったかもしれません。
今みたいにテレビコマーシャルも、SNSもネットニュースもウィキペディアも、ないですからね。

ただ、今の時代、10月はフツーに「神無月」であって、出雲地方では「神在月」と言われてることもすでにポピュラーであり、これをあえて強く否定するのも不粋だと思います。
だってこのこと自体、もう何百年も言われて、歴史のある事柄なんですからね。
実はそのへんは、あいまいでいいのかもしれません。

実際、紅葉の頃の京都、神社仏閣は観光客で大混雑ですから、案外、たいていの人は気にしてないんじゃないかと思います。
同じ頃、出雲大社も大賑わいですけどね。
ま、それぞれの都合に合わせて、どっちでもいいんです。

すみません、長かったですね。


【原文】

十月を神無月と云ひて、神事に憚るべき由は、記したるものなし。本文も見えず。たゞし、當月、諸社の祭なきゆゑに、この名あるか。

この月、萬の神たち、太神宮へ集り給ふなどいふ説あれども、その本説なし。さる事ならば、伊勢には殊に祭月とすべきに、その例もなし。十月、諸社の行幸、その例も多し。但し多くは不吉の例なり。


検:第202段 第202段 十月を神無月と言ひて

第二百一段 退凡、下乗の卒塔婆で

退凡、下乗の卒塔婆で、外側にあるのが下乗の卒塔婆、内側にあるのが退凡の卒塔婆です


----------訳者の戯言---------

仏教に関わってる人にとっては重要かもしれませんが。
ま、私にはどうでもいいです。
たぶん、お坊さんにとっても、どっちでもいいと思う。


【原文】

退凡・下乘の卒塔婆、外なるは下乘、内なるは退凡なり。


検:第201段 第201段 退凡・下乘の卒塔婆