徒然草 現代語訳 吉田兼好

徒然草を現代語訳したり考えたりしてみる

吉田兼好の徒然草を現代の言葉で書いたり、読んで思ったことを書いています。誤訳や解釈の間違いがありましたらぜひご指摘ください。(序段---冒頭文から順番に書いています。検索窓に、第〇〇段、またはキーワードを入力していただけばブログ内検索していただけると思います)

第九十八段 一言芳談

尊い聖人が言い残した事を書き付けて「一言芳談」とか名付けた本を読んだ時に共感して思ったこと等々

一、やろうか、やめとこかと思うことは、たいていは、しないのがよいのである

一、来世で往生しようと願う者は、ぬか漬けを入れる瓶一つも持ってはならない。携帯用の経文や本尊の仏像に至るまで、良い物を持つのは意味がないことである

一、出家隠遁する者は、物が不足してても不自由がないように心がけて過ごすのが、最上のやり方である

一、位の高い僧は位の低い僧の身になって考え、知恵者は愚か者の身になり、金持ちは貧乏人の身になってみる、能ある人は無能な人の身になって行動すべきである

一、仏の道を願うということは特別なことではない。時間的余裕のある身になって、世間の事は心にかけないのを第一の道とする

この他にもいろいろあったけど、覚えてないです


----------訳者の戯言---------

ためになる本を読んで、印象に残ったところを書いてみました、と。

物質的世俗的な上昇志向を嫌う、という思想ですね。
そんなに必死になりなさんなと。

そして、適度にゆるーい感じ。


【原文】

尊き聖のい云ひ置きけることを書き付けて、一言芳談とかや名づけたる草紙を見侍りしに、心に會ひて覺えし事ども。

一 爲やせまし、爲ずやあらましと思ふことは、おほやうは、爲ぬはよきなり。
一 後世を思はんものは、糂汰瓶(じんだがめ)一つも持つまじきことなり。持經・本尊にいたるまで、よき物を持つ、よしなきことなり。
一 遁世者は、なきに事かけぬやうをはからひて過ぐる、最上のやうにてあるなり。
一 上臈は下臈になり、智者は愚者になり、徳人は貧になり、能ある人は無能になるべきなり。
一 佛道を願ふといふは、別のこと無し、暇ある身になりて、世のこと心にかけぬを、第一の道とす。

この外も、ありし事ども、覺えず。

 

検:第98段 第98段 尊きひじりの言ひ置きける事を書き付けて

第九十七段 その物に取りついて

その物に取りついて、その物を弱らせ損なう物は数知れずあるよね
体には虱がつくし
家には鼠
国には犯罪者がいて
愚かな人に財産
人格者にとっては義理であり
そして僧侶には仏法がそれですね


----------訳者の戯言---------

ま、あり過ぎるとダメなものとか、それに縛られたらアカンというようなものも含まれます。


【原文】

其の物につきて、その物を費し損ふもの、數を知らずあり。身に虱あり。家に鼠あり。國に賊あり。小人に財あり。君子に仁義あり。僧に法あり。

 

検:第97段 第97段 その物に付きて、その物を費しそこなふ物 その物に付きてその物をつひやし損ふ物 その物に付きてその物を費し損ふ物 その物に付きてその物をつひやし損ふ物

第九十六段 めなもみという草

めなもみという草があります
蝮(くちばみ=まむし)に噛まれた人が、この草を揉んで付けると、すぐに治るらしい
実物を見て知っておくべきだね!


----------訳者の戯言---------

豆知識。
でもいざと言うときのために、実際に見ておいたほうがいいです、と。


【原文】

めなもみといふ草あり。蝮にさされたる人、かの草を揉みてつけぬれば、すなはち癒ゆとなん。見知りておくべし。

 

検:第96段 第96段 めなもみといふ草あり

第九十五段 箱の穴に紐をつける時

箱の穴に紐をつける時、どっち側に付けたらいいでしょうか」と、ある有職故実に通じた人にお尋ねしたら、「軸(左)に付けるのと、表紙(右)に付けるという説、両方の説があるので、どっちでも問題なし。文を入れる箱は、多くは右に付けるのよ。手箱には左に付けるのも普通のことだよ」とおっしゃった


----------訳者の戯言---------

まあ、伝統文化なんでしょうけど…
どうでもいいです。スミマセン。


【原文】

「箱のくりかたに緒を著くる事、いづ方につけ侍るべきぞ」と、ある有職の人に尋ね申し侍りしかば、「軸に付け、表紙につくること、兩説なれば、何れも難なし。文の箱は、多くは右につく。手箱には軸につくるも常のことなり」と仰せられき。

 

検:第95段 第95段 箱のくりかたに緒を付くる事

第九十四段 勅書を馬の上に乗ったまま

常盤井相国(西園寺実氏)が公務に就いてた時、勅書を持った北面の武士が相国にお会いして、馬から下りたのを、相国が後に「北面の誰々は、勅書を持ったまま下馬した者です。こんな者がどうして君にお仕えできましょうか」と申されたので、北面をクビになりました

勅書を馬の上に乗ったまま、捧げてお見せするべきだったんですね
下りるべきではありませんでした


----------訳者の戯言---------

そんなルールがあったのか!
それにしても、この相国(西園寺実氏)って奴、告げ口するってどうよ。
嫌なタイプやな。

1回ミスしたぐらいで…今なら労働基準法違反なんですけどね、当時は労組もないしね。

北面というのは院の御所の警護をする部門があった場所、らしいです。御所の北側でしょうか。

相国というのは太政大臣唐名
第八十三段では太政大臣になれるのに左大臣で引退するっていう人が何人か出ていきましたね。

 

【原文】

常磐井相國、出仕したまひけるに、敕書を持ちたる北面あひ奉りて、馬よりおりたりけるを、相國、後に、「北面なにがしは、敕書を持ちながら下馬し侍りし者なり。かほどの者、いかでか君に仕うまつり候ふべき」と申されければ、北面を放たれにけり。

勅書を馬の上ながら捧げて見せ奉るべし、下るべからずとぞ。

 

検:第94段 第94段 常盤井相国、出仕し給ひけるに 常磐井相国出仕し給ひけるに

第九十三段 牛を売る者

「牛を売る者がいました。買う人がいて、明日その金額を払って、牛を引き取ろうと言ったんです。でも、夜の間に、牛が死んだのね。結果、買おうとするは人得をして、売ろうとする人が損しましたね」って語る人がいました

これを聞いて、そばにいた人が「牛の飼い主は、実際損はしたけど、また大きな得もしてるんですよ。というのも、生きてる者が死に近づいてるのを知らないのは、牛だってそのとおりで。人もまた同じなんですよね。はからずも牛は死んで、はらかずも飼い主は生き延びただけなんです。一日の命は万金よりも重いですよ。牛の価値はガチョウの毛よりも軽いですね。万金を得て一銭を失う人に、損があったとは言えませんよ」と言ったところ、みんな馬鹿にして「そんな理屈は、牛の飼い主に限ったことではないですよ」と言うんです

またさらにさっきの人が言うには「そんなら、人が死を憎むぐらいやったら、むしろ生きてることに感謝すべきでしょ。生きてる喜びを日々楽しまないでどうするのよ。愚かな人は、この楽しみを忘れて、わざわざ他のことに楽しみを求め、こんな宝のようにすばらしいことを忘れて、リスクを冒して他の宝を貪ってるんじゃ、願いが叶うなんてことも無いでしょ。生きている間に生きてることを楽しまずに、死ぬ時になって死を恐れるんだったら、そりゃ理屈に合いまへん。人がみんな生を楽しまないのは、死を恐れないからですよ。いや、死を恐れないのではなく、死が近いことを忘れてるんです。もし、生や死といった現象には左右されないって言うのなら、それこそ真理を悟ったというべきですけどね」と言ったところ、人はますます馬鹿にしたんです


----------訳者の戯言---------

牛の話だったのに、たいそうにわかったようなことを言うな、ってことですか?

それとも、生を尊び死を恐れぬべし、生きてることそのものを大事に、っていう真理をせっかく語ってるのに、それを軽蔑するとは何事か!
でも、世の中の大多数ってこんなもんなんだよ、わかってないね、ってことなのでしょうか?

兼好の思想からすると後者でしょうけどね。
人を馬鹿にする人こそ馬鹿じゃん、っていう考え方もありますからね。

私の想像なのですが、ちょっと偉そうなことをくどくど書いちゃったんで、自嘲もしたのかと。後半のとこ、かなりくどいしな。
あんまり正論を語りすぎたら、気恥ずかしいってこともありますからね、誰しも。

ところで、ガチョウ=鵞鳥って、鵝って書くんですね。知らんかったです。勉強になりました。
まずガチョウとアヒルの違いもよくわかりませんしね。
アヒルと鴨の違いもわからないです。

というわけで、調べてみたところ、ガチョウはキジ科でアヒルはカモ科なんですね。
ガチョウのほうがでかくて首が長いです。全然違います。
で、鴨を家畜化したのがアヒルですから、鴨とアヒルは近いです、似ています。

いま、冬ですからダウンベストやダウンジャケットも着ますけど、だいたいはグース(goose=ガチョウ)ダウンです。
グースダウンのほうがダック(duck)ダウンよりも高級とされてるようですね。
ガチョウの羽毛が、めちゃ軽いってことは当時から常識だったということでしょうか。
なるほど。


【原文】

「牛を賣る者あり。買ふ人、明日その價をやりて牛を取らんといふ。夜の間に牛死ぬ。買はんとする人に利あり、賣らんとする人に損あり」と語る人あり。

これを聞きて、傍なる者の曰く、「牛の主、まことに損ありといへども、又大なる利あり。その故は、生あるもの、死の近き事を知らざること、牛、既に然なり。人、また同じ。はからざるに牛は死し、計らざるに主は存せり。一日の命、萬金よりも重し。牛の價、鵝毛よりも輕し。萬金を得て一錢を失はん人、損ありといふべからず」と言ふに、皆人嘲りて、「その理は牛の主に限るべからず」と言ふ。

また云はく、「されば、人、死を憎まば、生を愛すべし。存命の喜び、日々に樂しまざらんや。愚かなる人、この樂しみを忘れて、いたづがはしく外の樂しみを求め、この財を忘れて、危く他の財を貪るには、志、滿つる事なし。生ける間生を樂しまずして、死に臨みて死を恐れば、この理あるべからず。人みな生を樂しまざるは、死を恐れざる故なり。死を恐れざるにはあらず、死の近き事を忘るゝなり。もしまた、生死の相にあづからずといはば、實の理を得たりといふべし。」といふに、人、いよいよ嘲る。

 

検:第93段 第93段 牛を売る者あり 牛を売る者あり

第九十二段 ある人が弓を習う時に

ある人が弓をを習う時に、二本の矢を持って的に向かったのね
先生の言うことには「初心者は二つの矢を持ってはいけません。後の矢に頼ってしまって、はじめの矢にいい加減な気持ちが生まれるんです。毎回ただ当たりはずれなく、この一本の矢で決めるべきと思いなさい」とのこと
たった二本の矢しかないのに、先生の前で一つをおろそかにしようと思うでしょうか
怠け心は、自分自身は気付かなくても、先生はそれがわかるんです
この戒めは、あらゆることにあてはまるよね

道を学ぶ人は、夕方には朝があるだろうと思い、朝には夕方があるだろうと思って、時が来たら重点的に気合入れて頑張ればいいさって考えるのね
ましてや一瞬一瞬、怠け心が生まれる事なんてどうしてわかる? わからんでしょ
どうしたもんだろ、ただ今一瞬に、すぐ実行するってことはとても難しいんだよね


----------訳者の戯言---------

明日やるから別にいいやー。
はい、私のことです。


【原文】

ある人、弓射る事を習ふに、諸矢をたばさみて的に向ふ。師の云はく、「初心の人、二つの矢を持つことなかれ。後の矢を頼みて、初めの矢になほざりの心あり。毎度たゞ得失なく、この一矢に定むべしと思へ」と言ふ。わづかに二つの矢、師の前にて一つをおろそかにせんと思はんや。懈怠の心、みづから知らずといへども、師これを知る。このいましめ、萬事にわたるべし。

道を學する人、夕には朝あらむことを思ひ、朝には夕あらむことを思ひて、重ねて懇に修せむことを期す。況んや一刹那のうちにおいて、懈怠の心あることを知らんや。何ぞ、たゞ今の一念において、直ちにすることの甚だ難き。

 

検:第92段 第92段 或人、弓射る事を習ふに 或人弓射る事を習ふに

第九十一段 赤舌日というのは

赤舌日というのは、陰陽道では問題することではありません
昔の人はこれを忌み嫌うことはなかったんですよね
誰が言い出して忌み嫌い始めたのか、「この日のできごとは、最後まで達成することがない」と言って、その日言ったことやしたことが叶わず、得たものは失い、やろうとしたことは成功しない、なんて言うのは愚かです
逆に吉日を選んでやったことが、最後まで成し遂げられないことの数の多さをみても、同じようなもんでしょ

なんでかっていうと、無常で万物が移り変わる境地では、あると見えるものでも存在せず、始めのある事でも終わりが無いんです
願いは遂げられず、欲望は尽きることがありません
人の心は定まらないものですよ
すべての物は幻の化身であって
何事もほんのしばらくの間だってじっと留まることはありません

この道理がわかってないですね
「吉日に悪いことがあればそれは必ず凶なんです。悪日に善いことやればそれは必ず吉なんです」っていうこと
吉凶というのは、人によるものであって、日によるのものではありませんよ


----------訳者の戯言---------

「赤舌日」という縁起が悪いというか、何事も「凶」っていう日があったらしい。
しかも6日に1回も。つまり6分の1。悪いこと起こりすぎるやろ。

というわけで、そんな迷信、信じへんでよろしいで、ということですね。


【原文】

赤舌日といふ事、陰陽道には沙汰なき事なり。昔の人これを忌まず。この頃、何者の言ひ出でて忌み始めけるにか、この日ある事、末通らずといひて、その日言ひたりしこと、爲たりし事、叶はず、得たりし物は失ひつ、企てたりし事成らずといふ、愚かなり。吉日を選びてなしたるわざの、末通らぬを數へて見んも、亦等しかるべし。

その故は、無常變易の境、ありと見るものも存せず、始めあることも終りなし。志は遂げず。望みは絶えず。人の心不定なり。ものみな幻化なり。何事かしばらくも住する。この理を知らざるなり。「吉日に惡をなすに、必ず凶なり。惡日に善を行ふに、かならず吉なり」といへり。吉凶は人によりて、日によらず。

 

検:第91段 第91段 赤舌日といふ事

第九十段 大納言法印の使用人の乙鶴丸

大納言法印の使用人の乙鶴丸が、やすら殿という者と仲良くなって、いつも遊びに行ってたんだけど、ある時出かけて帰ってきたので、法印が「どこに行ってきたの?」と聞いたら「やすら殿の所へ行って参りました」と言うんですよ
「そのやすら殿は一般の男か、それとも僧侶か」とまた質問されたところ、かしこまった感じで「どうでしょう…頭を見ませんでした」とお答えしたの
なんで頭だけ見えへんかったんやろか


----------訳者の戯言---------

これ、笑うとこですかー。
「すべらない話」的なやつですか?

ま、諸説あるとは思います。大納言法印と乙鶴丸がそもそもどういう関係なのかとか。
所謂、恋人もしくは愛人関係にあって、やすら殿との浮気を疑って問いただしてるのか、つまり嫉妬。
それに対する言い訳?

あるいは単に使用人が遊びに行くのを咎められて、言葉に詰まったところ、ありえない言い訳をしたので、ツッコミを入れたということなのか。

男性と男性の下半身の関係、つまり、後ろからだけの関係なので顔は見てまへん、ということをエロ笑い話にした、という深読みもできますね。

兼好法師がどのへんに重きを置いて、あるいはどのような意図で書いたのかはちょっとわかりませんが、プライバシーの暴露という点ではかなり際どいですね。


【原文】

大納言法印の召し使ひし乙鶴丸、やすら殿といふ者を知りて、常にゆき通ひしに、ある時出でて歸り來たるを、法印、「いづくへ行きつるぞ」と問ひしかば、「やすら殿の許罷りて候」と言ふ。「そのやすら殿は、男か法師か」とまた問はれて、袖かき合せて、「いかゞ候ふらん。頭をば見候はず」と答へ申しき。

などか、頭ばかりの見えざりけん。

 

検:第90段 第90段 大納言法印の召し使ひし乙鶴丸

第八十九段 猫また

「奥山に『猫また』っていうのがいて、人を食べちゃうの」と、誰かが言ったのを聞いて「山じゃなくても、この辺でも、猫が年取って『猫また』になって人を襲うことはあるのにね」と言う者がいたんで、何とか阿弥陀仏とかいう、連歌を詠む僧侶なんですが、行願寺の近くに住んでるその僧がそれを聞いて、一人で出歩く時は用心すべき!と思ってたんですけど、まさにその頃、ある所で夜更けまで連歌をやった後、たった一人で帰ってたら、小川のそばで噂に聞いてた「猫また」が、狙ったかのように足元にさっと寄って来て、いきなりまとわりついて、首のあたりに食いつこうとしたんです
正気を失って、防ごうとはするんだけど、力なく足も立たず、小川へ転げ入って「助けてー、猫まただー、うわーうわー」と叫んだんで、家々から松明を灯して走り寄って見れば、このあたりでは知られたお坊さんでした
「これはどうしちゃったんですか!」といって、川の中から抱き起こしてみたら、連歌の会の賞品の扇や小箱なんかを懐に持ってたのも、水没しちゃってたのね
でも運よく助かった様子で、這うようにして家に入っていきました

飼っていた犬が、暗くても主人だとわかって、飛びついたもの、だったそうです


----------訳者の戯言---------

オチ、それですかー。


【原文】

「奧山に、猫またと云ふものありて、人を食ふなる」と人のいひけるに、「山ならねども、これらにも、猫の經あがりて、猫またになりて、人とる事はあなるものを」といふものありけるを、なに阿彌陀佛とかや連歌しける法師の、行願寺の邊にありけるが、聞きて、「一人ありかむ身は心すべきことにこそ。」と思ひける頃しも、ある所にて、夜ふくるまで連歌して、たゞ一人かへりけるに、小川の端にて、音に聞きし猫また、あやまたず足もとへふと寄り來て、やがて掻きつくまゝに、頚のほどを食はんとす。肝心もうせて、防がんとするに力もなく、足も立たず、小川へ転び入りて、「助けよや、猫また、よやよや」と叫べば、家々より松どもともして、走り寄りて見れば、このわたりに見知れる僧なり。「こは如何に」とて、川の中より抱き起したれば、連歌の賭物とりて、扇小箱など懷に持ちたりけるも、水に入りぬ。希有にして助かりたるさまにて、這ふ這ふ家に入りにけり。

飼ひける犬の、暗けれど主を知りて、飛びつきたりけるとぞ。

 

検:第89段 第89段 奥山に、猫またといふものありて 奥山に猫またといふものありて