徒然草 現代語訳 吉田兼好

徒然草を現代語訳したり考えたりしてみる

吉田兼好の徒然草を現代の言葉で書いたり、読んで思ったことを書いています。誤訳や解釈の間違いがありましたらぜひご指摘ください。(序段---冒頭文から順番に書いています。検索窓に、第〇〇段、またはキーワードを入力していただけばブログ内検索していただけると思います)

第十八段 慎ましくし、奢らず、財産を持たず

人は自身を慎ましくし、奢らず、財産を持たず、私利を貪ったりしないのが立派なことで
実際昔から賢者が裕福であることはごくごく稀なことだったんです

中国の許由という人は、少しの貯えもなくて、水も手ですくって飲んでいたので、それを見た人が瓢箪というものをあげたんですね
でも余計なことだったのかな、ある時、それを木の枝にかけてたのが風に吹かれて鳴るのがうるさくて、捨ててしまったの
で、その後は、また前のように手に水をすくって飲んでたというんですけど
きっとそのほうが、彼にとっては、すごく清々しいことだったんでしょうね

また、孫晨という人は、冬の間も布団がなくて、でも藁が一束だけあったので、夕方になるとこれに寝て、朝になったら片づけたというのね

中国の人は、これを立派だなあと思って、書きとめて世の中に伝えたんでしょうけど
この国の人はそんなことを語り伝えたりはしないですね


----------訳者の戯言----------

許由という人は貰った瓢箪を捨てなくてもよかったと思う。せっかくの好意を…。
清貧、清廉は認めるけど、人としてどうかとは思います、はい。
ていうか、木に引っ掛けなかったら、風にも吹かれないし、うるさくもないんじゃ…。賢者にしては考えが…。どうしても要らないなら、せめて、しばらくは保管しておいて、忘れたころにこっそり捨てるとか。

当然、まともな日本人はこんな話言い伝えねーよ!
テーマはいいけど、例えの選択ミスったな、兼好法師
モヤモヤ感満載の段です。

今の日本にはソフトバンクの孫さんやココイチ創業者の人みたいに大金持ちでも尊敬できる人がいるので、よかったなと思います。

 

【原文】

人は己をつゞまやかにし、奢りを退けて、財を有たず、世を貪らざらんぞ、いみじかるべき。昔より、賢き人の富めるは稀なり。

唐土に許由といひつる人は、更に身に隨へる貯へもなくて、水をも手して捧げて飮みけるを見て、なりひさごといふ物を人の得させたりければ、ある時、木の枝にかけたりければ、風に吹かれて鳴りけるを、かしかましとて捨てつ。また手に掬びてぞ水も飮みける。いかばかり心の中涼しかりけん。孫晨は冬の月に衾なくて、藁一束ありけるを、夕にはこれに臥し、朝にはをさめけり。

唐土の人は、これをいみじと思へばこそ、記しとゞめて世にも傳へけめ、これらの人は、語りも傳ふべからず。

 

検:第18段 第18段 人はおのれをつづまやかにし 人は己れをつづまやかにし

第十七段 山寺に籠って

山寺に籠って仏様にお仕えすることは、暇を持て余すようなこともなくて、ただただ心の濁りも清められる気持ちがします

 

【原文】

山寺にかきこもりて、佛に仕うまつるこそ、つれづれもなく、心の濁りも清まる心地すれ。

 

検:第17段 第17段 山寺にかきこもりて

第十六段 神楽っていい感じ

神楽って上品で優雅、いい感じですよね

楽器の音でいいのは笛や篳篥(ひちりき)、いつも聴きたいのは琵琶や和琴ですね


----------訳者の戯言----------

彼にとっては、音がいい=いつも聴きたい、ではないらしい。難しい人やな。
サックスとかフルートとかの管楽器の音はいいんだけどねー、いつも聴くのはバイオリンやギターの曲なんだよね、ということか。

 

【原文】

神樂こそ、なまめかしく、面白けれ。

大かた、物の音には、笛・篳篥、常に聞きたきは、琵琶・和琴。

 

検:第16段 第16段 神楽こそなまめかしく

第十五段 ちょっとした旅行に行くと

どこに行くにしても、ちょっとした旅行に行くと、目が覚めるようないい気分になるね
行った先の周辺をあちこち見てまわるんだけど、田舎っぽいところや山里なんかは、見慣れないものばかりでいっぱい

都へ手紙を送る時には、もう開放的になって仕事のことなんかどうでもよくなっちゃってるわけで「あの件やこの件、適当にうまくやっといてね、忘れずにね」なーんて書いて送るのがめちゃくちゃ気持ちいいです

旅行先では何をするにしても気持ちが研ぎ澄まされて豊かになるのね
だから持って行ってるモノまで、良い物はより良い物に思えるし、才能のある人、ルックスのいい人は、いつもよりもっと素敵に見えますね

あと、お寺や神社にそっと籠るのも風情があっていいものなのだ


----------訳者の戯言----------

旅行に行ったら、テンション上がりまくり。

 

【原文】

いづくにもあれ、暫し旅立ちたるこそ、目さむる心地すれ。

そのわたり、こゝかしこ見ありき、田舍びたる所、山里などは、いと目馴れぬことのみぞ多かる。都へたよりもとめて文やる。「その事かの事、便宜に忘るな」など、言ひやるこそをかしけれ。

さやうの所にてこそ、萬に心づかひせらるれ。持てる調度まで、よきはよく、能ある人・かたちよき人も、常よりはをかしとこそ見ゆれ。

寺・社などに、忍びてこもりたるもをかし。

 

検:第15段 第15段 いづくにもあれしばし旅だちたるこそ、目さむる心地すれ いづくにもあれしばし旅立ちたるこそ

第十四段 和歌はやっぱり良い

和歌はやっぱり良いものですね
身分の低い人や、木こりのような賤しい者のやる事だって、和歌に詠んだら趣があって、例えばあの怖い猪だって「ふす猪の床」なんて言えば、なんか優雅な感じになるでしょ

最近の歌は、一節だけは上手く詠んでるように見えるのはあるけど、古い歌みたいに、なんていうか、言外に趣があってしみじみと感じるようなのはなかなか無いんだよね

紀貫之が「糸による物ならなくに」と詠んだのが、古今集の中のできそこないみたいに言い伝えられてるけど、とても今の時代の人が詠めるとは思えないくらいすばらしいよ
実は当時の和歌には、形式や使ってる言葉も、これに似たものが結構多くて
なのにこの歌に限ってこんなふうに否定されるのは、よくわかんないんだよね
源氏物語では「物とはなしに」とこの紀貫之の歌の言葉を一部変えて引用してるわけだし

で、新古今和歌集に「残る松さへ峰にさびしき」という歌があって、これがまたできそこないみたいに言われてるんだけど、まじでちょっと決まりからは外れてる風に見えてね
でもこの歌、実は衆議判(しゅぎはん)っていう歌の判定会の時に後鳥羽院が「いいね!」とおっしゃって、その後も院が再度、格別に感心なさってたと(源)家長の日記には書いてあるんだよ

和歌の道だけは今も昔も変わらないって言うけど、どうなんでしょうかね
今詠まれてる歌にも昔のと同じ言葉やテーマを使ってるのはあるけど、昔の人の詠んだ歌はそんなのと全然違ってて、安心感があって素直で、見た目も清らかで、趣深く見えるんだ

でね、「梁塵秘抄」に出てる謡い物で使ってる言葉には、またセンスのいいのが多くて
昔の人がただ言い放っただけみたいな言葉でも、全部いい感じに聞こえるんだよね


----------訳者の戯言----------

兼好法師、実は歌人としても有名だったようですね。
しかも、かなり懐古主義的、昔の詠み人大好き!だったことがわかります。

では、この段に出てくる歌について簡単に。

●糸による物ならなくに
「糸による 物ならなくに 別れ路の 心ぼそくも おもほゆるかな」
この歌は古今和歌集に撰ばれた歌で羇旅歌=旅情を詠んだ歌で、詠み人は紀貫之

●残る松さへ峰にさびしき
「冬の来て 山もあらはに木の葉ふり 残る松さへ 峰にさびしき」
新古今和歌集に収められている歌。祝部成茂(ほふりべのなりしげ)の作。

さて、テーマとは違うんですが、この段の冒頭部分の、身分が低い人々についての偏見、差別的記述は、今のポリティカル・コレクトネスの観点からすると完全NGですね。
炎上しちゃいますよ。
当時の身分、階級に関する常識というのは今とはほんとに違いますね。
当時の教養人で、しかも宗教家でもあった兼好からしてこれですからね。

 

【原文】

和歌こそ なほをかしきものなれ。あやしの賤・山がつの所作も、いひ出でつれば面白く、恐ろしき猪のししも、「臥猪の床」といへば、やさしくなりぬ。

この頃の歌は、一ふしをかしく言ひかなへたりと見ゆるはあれど、古き歌どものやうに、いかにぞや、言葉の外に、哀れに、けしき覺ゆるはなし。貫之が、「絲による物ならなくに」といへるは、古今集の中の歌屑とかや言ひ傳へたれど、今の世の人の詠みぬべきことがらとは見えず。その世の歌には、すがた・言葉、この類のみ多し。この歌に限りて、かくいひ立てられたるも知りがたし。源氏物語には、「物とはなしに」とぞ書ける。新古今には、「のこる松さへ峰にさびしき」といへる歌をぞいふなるは、誠に、少しくだけたるすがたにもや見ゆらん。されどこの歌も、衆議判の時、よろしきよし沙汰ありて、後にもことさらに感じ、仰せ下されける由、家長が日記には書けり。

歌の道のみ、いにしへに變らぬなどいふ事もあれど、いさや。今もよみあへる同じ詞・歌枕も、昔の人の詠めるは、更に同じものにあらず。やすくすなほにして、姿も清げに、あはれも深く見ゆ。

梁塵秘抄郢曲の言葉こそ、また、あはれなる事は多かめれ。昔の人は、ただいかに言ひ捨てたる言種も、皆いみじく聞ゆるにや。

 

検:第14段 第14段 和歌こそ、なほをかしきものなれ 和歌こそなほをかしきものなれ

第十三段 一人で灯の下で本を開いて

一人で灯の下で本を開いて、絶対会うことはできない昔の人たちを友だちにすることは、すごく気持ちいい行為なのです

読む本は、「文選」の中のイケてる巻とか、「白氏文集」(by白楽天)、老子の言ったことを書いたやつ、あとは荘子の「南華の篇」とか
そのほか日本の知識人たちの書いた本も、昔のはいい感じのが多いです


----------訳者の戯言----------

兼好法師、なかなかの読書家のようですね。これなら一人でも寂しくないですよね。
読んでる本を披露するなど、ちょっと小自慢も入っててかわいい。
オススメは概ね漢文学です。さすがインテリは違うと。けど、今の本はよくないよなー、昔のはいいよなあ、とかいうのはちょっと偏見じゃないか?

 

【原文】

ひとり灯のもとに文をひろげて、見ぬ世の人を友とするこそ、こよなう慰むわざなる。

文は文選のあはれなる卷々、白氏文集、老子のことば、南華の篇。この國の博士どもの書けるものも、いにしへのは、あはれなる事多かり。

 

検:第13段 第13段 ひとり灯のもとに文をひろげて ひとり燈のもとに文をひろげて

第十二段 真の心の友人とは

同じ感性の人としんみりと語り合って、興味のあることとか、世の無常なんかについて、本心を隠さず話して心が癒されるのは、すごくうれしいことなんだけど、そんな人はなかなかいない
相手の本意と違うことを言ったりしないように気を遣って適当に同意するだけじゃ、結局一人でいるのとおんなじなんですよ

お互いに言うことを「なるほどー」と聞く価値ありの場合もあるし、少々意見の違う人と「私はそうは思わん」なんて言い争ったり、「だから、そうなのよー」なんて語り合うこともあったりで、それもまあ退屈しのぎにはなるとは思うんだ、しかし実際、少々の愚痴を言うにしても、自分とおんなじセンスじゃない人とでは、どうでもいいような事を話すくらいまではOKなんだけど、それも真の心の友人とは決定的に違う部分があるわけで、やっぱ物足りないんだよね

 

----------訳者の戯言----------

結局、真の心の友はなかなかおらん、自分と知性感性が同じじゃない人には気を遣うだけで、理解し合えないんですよね。ってこと。難しいな。
中途半端な友だちなんかいらんわ、ってことでしょうか。これには同意。

 

【原文】

同じ心ならむ人と、しめやかに物語して、をかしき事も、世のはかなき事も、うらなくいひ慰まんこそ嬉しかるべきに、さる人あるまじければ、露違はざらんと向ひ居たらんは、ただひとりある心地やせん。

互に言はんほどのことをば、「げに」と聞くかひあるものから、いさゝか違ふ所もあらん人こそ、「我は然やは思ふ」など爭ひ憎み、「さるから、さぞ」とも うち語らはば、つれづれ慰まめと思へど、げには、少しかこつかたも、我と等しからざらん人は、大かたのよしなしごといはん程こそあらめ、まめやかの心の友には、遙かにへだたる所のありぬべきぞ、わびしきや。

 

検:第12段 第12段 おなじ心ならん人としめやかに物語して 同じ心ならん人としめやかに物語して

第十一段 ちょっと興ざめ

陰暦十月神無月の頃、ま、秋の終わりごろですね、栗栖野という所の向こうにある山里に行くことがあって、長々と続いてる苔の細道を踏み分けて入っていったら、寂しい感じで暮らしている庵を見つけたのよ

木の葉に埋もれてる樋(とい)のしずくのほかには、少しも音を立てるものは無くてね
でも仏様にお供えする水とか花、仏具なんかを置く棚に、菊や紅葉などを折り散らしているからには、やっぱり住んでる人がいるんだろうと

へえ、こんなレベルでも暮らしていけるんかーと感心して見てたら、向こうの方の庭に、大きなみかんの木があって、枝もしなるぐらい実がなってるんだけど、木の周りを厳重に囲ってるのがちょっと興ざめで、この木さえなかったらなー、と思ったんですよね

 

【原文】

神無月の頃、栗栖野といふ所を過ぎて、ある山里に尋ね入る事侍りしに、遙かなる苔の細道をふみわけて、心細く住みなしたる庵あり。木の葉に埋もるる筧の雫ならでは、露おとなふものなし。閼伽棚に、菊・紅葉など折りちらしたる、さすがに住む人のあればなるべし。

かくても在られけるよと、あはれに見る程に、かなたの庭に大きなる柑子の木の、枝もたわゝになりたるが、まはりを嚴しく圍ひたりしこそ、少しことさめて、この木なからましかばと覺えしか。

 

検:第11段 第11段 神無月の比、来栖野といふ所を過ぎて 神無月のころ来栖野といふ所を過ぎて 神無月のころ、来栖野といふ所を過ぎて

第十段 住んでるとこ見たら

家がその人に似合ってて、こんな感じだったらいいっていうのは、ま、住宅なんていうのはこの世の仮の宿くらいなもんだとは思うけど、それでもやっぱり興味深いです

すてきな人が、のどかに暮らしてるところは、窓から見える月の色もすごくしみじみとしたいい感じに見えるんですよ
今っぽい豪華な感じではなくて、周りの木立ちが何となく年季が入ってて、自然な感じの庭の草がかえって気がきいてて、縁側とか垣根の配置もかっこよく、何気に置いてある道具なんかもアンティーク感があって癒されるし、そういうのってほんとイカしてる

でもね、一流職人たちがていねいに磨き上げた、輸入物とか、日本製でもレアな尋常じゃないレベルの調度品をずらっと並べて、庭の植え込みなんかも立派に人工的に作り上げちゃってるのは、見てるのもつらいし、すごくわびしいですよ

そんな感じのまんまで、いつまでも住んでられる? 無理でしょ
でなくても、こんなのすぐ火事で煙になってしまうと意味ないじゃん、とか、見てて思っちゃうんですよね
だいたいは、住んでるとこ見たら、その人の生き方とかセンスがわかりますよ

後徳大寺左大臣がお屋敷に鳶が飛んで来ないように縄を張ってたのを西行が見て「鳶がいたらなんでダメなの? この人の度量ってこの程度なの? 小っちゃいやつやな」と言って、それ以後、行かなくなったと聞いてたんだけど

綾小路宮の小坂殿にもいつだったか縄がひかれてたんで、西行の時のことを思い出したんですけどね、なんと!「カラスがいっぱい来て池の蛙を取るもんだから、宮さまがそれを御覧になって悲しまれたからなんですよ」とそこの人が言ったもんだから、何て素敵なんだろう!と思ったわけでして

徳大寺さんのところも何か理由があったのかもね

 

【原文】

家居のつきづきしく、あらまほしきこそ、假の宿りとは思へど、興あるものなれ。

よき人の、長閑に住みなしたる所は、さし入りたる月の色も、一際しみじみと見ゆるぞかし。今めかしくきらゝかならねど、木立ちものふりて、わざとならぬ庭の草も心ある樣に、簀子・透垣のたよりをかしく、うちある調度も昔覚えてやすらかなるこそ、心にくしと見ゆれ。

多くの工の心を盡して磨きたて、唐の、大和の、珍しく、えならぬ調度ども並べおき、前栽の草木まで、心のまゝならず作りなせるは、見る目も苦しく、いとわびし。さてもやは、存へ住むべき、また、時の間の烟ともなりなんとぞ、うち見るよりも思はるゝ。大かたは、家居にこそ事ざまは推しはからるれ。

 後徳大寺の大臣の寢殿に、鳶ゐさせじとて、縄を張られたりけるを、西行が見て、「鳶の居たらんは、何かは苦しかるべき。この殿の御心、さばかりにこそ」とて、その後は參らざりけると聞き侍るに、綾小路宮のおはします小坂殿の棟に、いつぞや繩を引かれたりしかば、かの例思ひ出でられ侍りしに、誠や、「烏のむれゐて池の蛙をとりければ、御覧じ悲しませ給ひてなん」と人の語りしこそ、さてはいみじくこそと覚えしか。

徳大寺にも、いかなる故か侍りけん。

 

検:第10段 第10段 家居のつきづきしく、あらまほしきこそ 家居のつきづきしくあらまほしきこそ

第九段 女子の色香に迷う!?

女性は髪がきれいなのが、いちばんの魅力です
他方、品性や気立てなんかは、御簾越しに、面と向かってじゃなくても、お話の仕方だけで十分にわかります

ことあるごとに、女子のちょっとしたそぶりが男心を惑わし、彼女たちがみんな、夜もろくに眠れなくても、身体がぼろぼろになろうと、そして我慢ならないことでも頑張っちゃえるのは、ひとえに、女子たちがただただ恋愛に生きてるからなんですよね

まさに恋愛欲、恋愛ごと対する執着っていうのは、根が深くて、その本質にはなかなか辿り着けないのです
今の世の中、欲望をかきたてるものは盛りだくさんで、でもそんなのはどれも寄せつけないようにできるし、まあ我慢もできる
しかし、その中でも、ただ、あの色恋にかかわる情欲、惑いにだけは、老いも若きも、知恵のある者も愚か者も、みんな苦しむんですよね

だから、女性の髪の毛を縒ってつくった綱で繋いだら大きな象だって身動きとれなくなるし、女性のはいた下駄で作った鹿笛の音には秋の牡鹿が必ず寄ってくる、なんて言い伝えられている
そう、つまり男は「女の色香に迷う」ことがないように自ら戒めて恐れ慎まないといけないのであります

 

----------訳者の戯言----------

女は恋愛に命かけてるし、恋愛オンリーやし、という考え方、なかなかの女性蔑視です。しかも髪の毛フェチ、声フェチ。
それに対して男は女子への恋慕とか、女子の色香とか、そういうのに惑わされる生き物なのだと、これまた断定的な物言い。

女性に対しても、男性に対しても、兼好、かなり失礼です。ま、普遍的ではあるのかもしれないけど言い過ぎだと思う。

 

【原文】

女は髪のめでたからんこそ、人の目だつべかめれ。人の程、心ばへなどは、もの言ひたるけはひにこそ、物越しにも知らるれ。

事に觸れて、うちあるさまにも、人の心をまどはし、すべて女の、うちとけたる寝も寝ず、身を惜しとも思ひたらず、堪ふべくもあらぬ業にもよく堪へ忍ぶは、たゞ色を思ふがゆゑなり。

まことに、愛著の道、その根深く、源遠し。六塵の樂欲多しといへども、皆 厭離しつべし。その中に、たゞ、かの惑ひのひとつ止めがたきのみぞ、老いたるも若きも、智あるも愚かなるも、変はる所なしとぞ見ゆる。

されば、女の髪筋を縒れる綱には、大象もよくつながれ、女のはける足駄にて造れる笛には、秋の鹿、必ず寄るとぞ言ひ傳へ侍る。自ら戒めて、恐るべく愼むべきは、この惑ひなり。

 

検:第9段 第9段 女は髪のめでたからんこそ、人の目たつべかめれ 女は髪のめでたからんこそ、人の目だつべかめれ