徒然草 現代語訳 吉田兼好

徒然草を現代語訳したり考えたりしてみる

吉田兼好の徒然草を現代の言葉で書いたり、読んで思ったことを書いています。誤訳や解釈の間違いがありましたらぜひご指摘ください。(序段---冒頭文から順番に書いています。検索窓に、第〇〇段、またはキーワードを入力していただけばブログ内検索していただけると思います)

第五十四段 面白くしようとしすぎしたら、絶対スベる

仁和寺、俗に言う御室に、かわいい稚児さんがいたんで、なんとかして誘い出して遊ぼうと画策する坊さんたちがいて
芸達者な遊び専門の僧侶なんかも仲間に引き入れて、おしゃれな弁当箱的なものを熱心に作り込んで、箱みたいなのにちゃんと入れて、寺の南側にある双(ならび)の丘の、ちょうどいい感じの所に埋めて、上に紅葉を散らして、人が気づかないようにしておいてから、仁和寺の御所に参って、稚児をそそのかして連れ出したんです

やったーと思って、ほうぼうを遊び回って、前もって仕掛けをした苔がびっしり生えてる所に並んで座って「あーめちゃ疲れた」「誰かいい感じに紅葉の焚火してくれへんかなあ」「霊験あらたかな僧侶たちよ、祈ってみてくれー」なんて言い合って、例の物を埋めた目印の木の下で向き合って、数珠をこすり、物々しい感じで印を結んだりとか、大げさにやって、木の葉を払いのけたんだけど、全然なんにも出てこない
あれれ場所間違えたかなーと、掘らない所はもう無いっていうくらい、山を探し回ったけど、結局無かったの

実は埋めているのを人が見てて、御所へ参上してる隙に盗んだのでした
法師たちは言葉もなくなって、聞き苦しいほどの言い合いをして、怒って帰ってしまったよ

あんまり面白くしようとしすぎしたら、絶対スベるよな


----------訳者の戯言----------

それにしても仁和寺の坊主と言ったら、なんでこんな奴ばっかりやねん。
という、このシリーズ第3弾。

まず一つは、かわいい稚児と遊びたい僧侶ってどうよ。ヤバくね? 倫理的にいいのか?
まあ、遊びの内容がたわいもないものなんで、セーフかもしれんけど。その割に大がかり。

そして本題です。
今回は狙い過ぎ、手間かけ過ぎて、コケるというパターン。

関係ないけど、フラッシュモブとかいうやつ、失敗してほしいと思うのは、私の心が汚れてるからかな。


【原文】

御室に、いみじき兒のありけるを、いかで誘ひ出して遊ばむと企む法師どもありて、能あるあそび法師どもなど語らひて、風流の破籠やうのもの、ねんごろに營み出でて、箱風情のものに認め入れて、雙の岡の便りよき所に埋み置きて、紅葉ちらしかけなど、思ひよらぬさまにして、御所へまゐりて、兒をそゝのかし出でにけり。

うれしく思ひて、こゝかしこ遊びめぐりて、ありつる苔の筵に竝みゐて、「いたうこそ困じにたれ。あはれ紅葉を燒かむ人もがな。験あらん僧たち、いのり試みられよ」などいひしろひて、埋みつる木のもとに向きて、數珠おしすり、印ことごとしく結びいでなどして、いらなくふるまひて、木の葉をかきのけたれど、つやつや物も見えず。所の違ひたるにやとて、掘らぬ所もなく山をあされども無かりけり。埋みけるを人の見おきて、御所へ參りたる間に盜めるなりけり。法師ども言の葉なくて、聞きにくくいさかひ腹だちて歸りにけり。

あまりに興あらむとすることは、必ずあいなきものなり。

 

検:第54段 第54段 御室に、いみじき児のありけるを 御室にいみじき児のありけるを