徒然草 現代語訳 吉田兼好

徒然草を現代語訳したり考えたりしてみる

吉田兼好の徒然草を現代の言葉で書いたり、読んで思ったことを書いています。誤訳や解釈の間違いがありましたらぜひご指摘ください。(序段---冒頭文から順番に書いています。検索窓に、第〇〇段、またはキーワードを入力していただけばブログ内検索していただけると思います)

第二百段 呉竹は葉が細くて、河竹は葉が広いよ

呉竹は葉が細くて、河竹は葉が広いよ
清涼殿の前の御溝水に近いのは河竹、仁寿殿のほう寄りに植えられてるのは呉竹なんだ


----------訳者の戯言---------

それで?


【原文】

呉竹は葉ほそく、河竹は葉ひろし。御溝にちかきは河竹、仁壽殿の方に寄りて植ゑられたるは呉竹なり。


検:第200段 第200段 呉竹は葉細く、河竹は葉広し 呉竹は葉ほそく、河竹は葉ひろし

第百九十九段 横川行宣法印が申されたんだけど

横川行宣法印が申されたんだけど「中国は呂(音)の国である。律の音は無い。日本は律音だけの国であって、呂の音は無い」ということだよ


----------訳者の戯言---------

音楽理論には疎いのでよくわからないんですが、十二平均律、つまりオクターブを半音ごとに12音に分けるという考えに基づいているんだろうと思ったので、調べてみました。

中国とか日本でも十二律という理論があったようです。
この12個の音を西洋音楽の音名にすると、C、C#、D、D#、E、F、F#、G、G#、A、A#、Bだそうですね。
しかしこれだけ見ると西洋音楽と音的にはまったく変りないです。

ただ、奇数番目の6音を律と言い、偶数番目の6音を呂と言ったらしいですから、横川行宣法印という人が言ってることがよくわからなくなるんです。

6音音階というのは実はあまりなんですよね。
ただ、琉球音階は6音音階(ヘキサトニックスケール)と言われています。
7音音階ですものね、普通は。Cルートならドレミファソラシ(ド)、ダイアトニックスケールが普通なんですよ。
5音音階も民族音楽とかではよくあります。所謂ペンタトニックスケールもそうですね。

でもいずれにしても横川理論の六音音階は、普通ではありえない音階ですよね。
呂の音が無いとか、律の音が無いとか。

ただ、雅楽には古くから使われている音階(スケール)があります。
それが、律旋法と呂旋法です。
いずれも5音音階です。
律旋法は、C、D、F、G、A、(C)
呂旋法は、C、D、E、G、A、(C)
律旋法のほうは半音上げてC#を起点にすればC#、D#、F#、G#、A#、(C#)ですから、ピアノで弾くには、2コ並んでる方の黒鍵の左側から黒鍵だけ順番に弾いていくとこの音階になりますね。
呂旋法はF#の黒鍵から、すべて黒鍵を弾くとそれっぽい感じです。

弾いてみたら、中国音楽っぽいです。特に呂旋法のほう。
で、やはり日本の雅楽は律旋法がほとんどらしいです。
中国ではどっちもアリみたいですが、やっぱり呂旋法が多いとか。

ということでした。
邦楽とかやってたらすぐわかったのかもしれないんですが、ずいぶん手間取ってしまいましたよ。

ところで横川行宣法印って何者?
調べてみましたが、この徒然草にしか出てこない人なんです。
どうしようもないですね。


【原文】

横川行宣法印が申しはべりしは、「唐土は呂の國なり、律の音なし。和國は單律の國にて呂の音なし。」と申しき。


検:第199段 第199段 横川行宣法印が申し侍りしは 横川行宣法印が申し侍りしは

第百九十八段 揚名の介(すけ)に限らず

揚名の介(すけ)に限らず、揚名の目(さかん)というものもある
「政事要略」に書いてあるんだ


----------訳者の戯言---------

国司というのは朝廷から地方に派遣された官職で、守(かみ)、介(すけ)、掾(じょう)、目(さかん)という四等官があって、ま、その下にもいろいろな人が働いてたようです。
ただ、任命されても現地へ行かずに本人は都にいて、代理人を行かせたりもしてたみたいですね。
鎌倉時代になると、武家社会ですから、幕府が地方を管理するようになって、室町時代にはすでに有名無実の官職になってみたいです。

揚名っていうのは名目だけで職務や俸禄のない官職。
公卿は国司を兼任できなかったそうなので、家族や家臣を名目だけの国司にしたということのようです。

現代では…公務員ではあまりないですね。
零細企業などで、実際には仕事してない妻や子どもを役員や社員にすることはよくあります。
そのほか、名誉職なんかも名目だけのことが多いですね。
森友学園の名誉校長になりかけた安倍昭恵なんかもそうでしょうか。
いや、あれは、ちゃんと仕事したことになるんでしょうね。
土地をあれだけ安くしたんだから、功績は大きいですよね。
結局は開校できなかったんですけどね。


【原文】

揚名介に限らず、揚名目といふものあり。『政事要畧』にあり。


検:第198段 第198段 揚名介に限らず 揚名介にかぎらず

第百九十七段 定額の女孺

寺々の僧についてだけじゃなくって、定額の女孺というのが、延喜式に書いてあるよ
すべて、定員が決まっている公務員に共通する呼び方なんだね


----------訳者の戯言---------

「定額」というのは、ケータイの定額プランとかいうときの定額と、まあ、似てはいますが、「じょうがく」と読むらしいです。定員のことだそうです。

当時は「定額僧」というシステムがあったらしいですね。
全部かどうかは知りませんが寺は一定の人員を維持するように決められたみたいです。
理由は、課税逃れを防ぐ、寺の荒廃を防ぐ、あるいは国家的な仏教行事なんかを実施、管理しやすくなるというメリットもあったのでしょう。
どうやら給料も国から出ていたらしい。

女孺というのは、後宮において内侍司(ないしのつかさ)に属し、掃除、片付けとか、灯りをつけるとか、ま、雑事に従事した下級女官のことだそうです。

しかしそもそも、後宮とか内侍司って何よ。

江戸時代とかだと、江戸城に大奥ってあったけど、あれに似ている感じでしょうか。中国の王様の城内に後宮っていうのがあったのは、前に小説で読んだことがあります。

つまり、帝の側室候補もいる、女性だけの部署ですね。
後宮はざっくりと場所、内侍司は部署名ということでしょう、日本の御所では。

ただ、側室がいるというだけではなく、もちろん仕事もありました。今で言うなら、秘書課、総務課、庶務課あたりの役割だったのではないかと思います。
内侍司には尚侍という長官(カミ)が2名、典侍(スケ)という次官が4人、その下に掌侍(ジョウ)が6人いたそうです。
最初のうちは、トップの尚侍やナンバー2の典侍も所謂女官だったらしいですが、このあたりの人はそのうち皇妃に準ずる立場、つまり側室、妾となったそうですね、実質的には。
ってことは、実際に中心となってこの部署のオシゴトをしたのは掌侍ということでしょうかね。

で、さらに、前述のこまごまとした雑用をしたのが、その下にいた女孺(にょじゅ/めのわらわ)で100人いたらしい。

あんまり関係ないですが、紫式部とか清少納言とかはどのポジションだったんでしょうか?
実は、彼女たちは純粋な公務員ではなかったんですね。
皇妃に雇われた私設秘書みたいなものらしいです。
もちろん、後宮に出勤するんですけどね。

延喜式
なんか聞いたことありますね。
昔の、何かルール的なものでしょうか。

調べてみました。
古代の法律が「律令」と言われてて、それを基に国が治められていたのはなんとなくわかります。
律が刑法、令が行政法民法というものでしたね。
で、さらにこの律令の施行細則を示したのが「格式」で、その一つが「延喜式」なんだそうです。
宮中の儀礼、作法、人事システムなんかも書かれてたんでしょう。
全50巻、約3300条だそうです。
はっきり言って、めんどくさい。読みたくない。

ま、そういうのに公務員の定員も書かれていたんでしょう。

結論。
「定額僧」だけでなく、他の公務員にも「定額」って言い方してるじゃん! 延喜式に書いてあるじゃん!
ただそれだけ。


【原文】

諸寺の僧のみにもあらず、定額の女嬬といふこと、『延喜式』に見えたり。すべて、數さだまりたる公人の通號にこそ。


検:第197段 第197段 諸寺の僧のみにもあらず、定額の女孺といふ事

第百九十六段 東大寺の御神輿が東寺の若宮八幡宮からお戻りになる時

東大寺の御神輿が東寺の若宮八幡宮からお戻りになる時、源氏の公卿たちが参上してて、この殿(久我通基)が近衛府の大将だったんだけど、護衛の者に道をあけるように指示をなさってたのを、土御門相国(土御門定実)が、「神社の前で警蹕(けいひつ=声をかけて人払いをして道をあけさせること)はいかがななものか」と申されたんで、「近衛府随身(SP)のふるまいについては、武官の家の者が知っていることでございます」とだけお答えになったのね

そして、後におっしゃったのは、「あの相国は『北山抄』だけを見て、『西宮の説』を知らなかったんだね。神に従う悪鬼や悪神のたぐいを恐れるがために、神社では特に前もって人払いすべきっていうセオリーがあるんだよ」ということだったよ


----------訳者の戯言---------

この段も前段で出てきた久我内大臣=久我通基のお話です。
ただし若い頃の、ですね。
前段の最後の文を受けて、書かれているとも言えます。
同じ段で続けて書いてもよかったんじゃないかとも思います、私は。

ちなみに久我通基が右近衛大将だったのは1288年頃まで。
土御門定実太政大臣に任じられたのは1301年ですから、兼好の書いてるとおりなら、通基が後に語ったのは10年以上も後ということになりますね。
ちなみに「相国」というのは太政大臣唐名だそうです。

ですから、兼好が、通基の言葉として(直接話法で)「あの相国は~」と言った風に書いたのは、おそらく勘違いでしょう。
1301年以降ともなると久我通基も60歳を超えてますし、あまりにも大人げないです。
この段については、彼らがもっと若かった頃のことだと理解したほうがいいでしょうね。
土御門定実太政大臣(相国)になる遥か以前のこと、と見るのが正しいと思います。

さて、久我通基と土御門定実ですが、どちらも村上源氏の流れをくむ家の出。同じ一門ではありますが、その中での覇権争い的なものもあったようです。
久我家は村上源氏嫡流でしたが、他の家も台頭してきた時期だったようですね。

太政大臣は、天皇や院を別格とすれば、為政者としてはトップ=ナンバー1です。
前にも書きましたが、内大臣はナンバー4くらいですね。
だから、最終職歴(官位)についてだけ言うと、土御門定実のほうが上。
しかし通基が近衛大将だった頃はたぶん通基が上位だったのだと思います。年齢もほぼ同じくらいだったようで、同門のライバル的な間柄だったかもしれません。

「北山抄」は藤原公任が書いた故実の書で、「西宮の説」は源高明による、やはり故実の書。
どっちも公事や儀式に関することが書かれているんですね。
ただ「西宮の説」には警蹕についての記述はないらしい。

さて、関連ですが、第百二十八段で犬の足を切ったという虚言によって、大将への昇進を妨げられ、以後昇進がままならなかったのが、この段の土御門定実の息子、雅房大納言(土御門雅房)でした。かわいそすぎる人です。

あと、第百四十五段に(御)随身のことが書かれていましたね。
随身」は所謂、天皇をはじめとする貴人、要人のセキュリティポリス(SP)ですね。
警護のエキスパート、エリートと言っていいでしょう。

兼好法師、久我通基については、的確な判断や教養、品格のようなものを結構評価していて、親愛の情のようなものを持っているように私は思います。


【原文】

東大寺の神輿、東寺の若宮より歸座のとき、源氏の公卿參られけるに、この殿、大將にて、先を追はれけるを、土御門相國、「社頭にて警蹕いかゞはべるべからん」と申されければ、「隨身のふるまひは、兵仗の家が知る事に候。」とばかり答へ給ひけり。

さて、後に仰せられけるは、「この相國、『北山抄』を見て、西宮の説をこそ知られざりけれ。眷属の惡鬼・惡神を恐るゝゆゑに、神社にて、殊に先を追ふべき理あり」とぞ仰せられける。


検:第196段 第196段 東大寺の神輿、東寺の若宮より帰座の時

第百九十五段 ある人が久我縄手を通ってたら

ある人が久我縄手を通ってたら、小袖に大口袴を着た人が、木造りの地蔵を田の中の水に浸して念入りに洗っておりました
事情がわからず見てたんですが、狩衣を着た男性が2、3人出てきて、「ここにいらっしゃったよ!」と言って、この人を連れ去ってしまったんです
久我内大臣(久我通基)殿でいらっしゃいました
健康でいらした時は、立派で上品な方でございましたよ


----------訳者の戯言---------

今の京都・伏見区の久我(こが)に久我縄手っていう道路があったらしいです。
縄手というのは、あぜ道。あるいはまっすぐな長い道。
畷(なわて)とも書きます。
大阪の四条畷の「畷」も同意だそうです。

久我(こが)家のお屋敷が、この久我のあたりにあったんでしょうね。
久我家は村上源氏嫡流だったそうですが、同じ村上源氏の堀川家、土御門家なども勢力を強めてきたので、久我通基にはその焦り、心労もあったのではないでしょうか。

1288年頃、それまでの要職を解かれた久我通基。
齢48歳くらいだったとのことです。
通基に取って代わって、右近衛大将、および内大臣に就いたのが西園寺実兼という人物です。

西園寺実兼第百十八段に出てきました。
時の帝、後醍醐天皇に娘を嫁がせ、外戚関係を結んで権力を拡大した人でした。
食材のストック棚に「雁」があったのを見て、ちょっと…と娘に手紙を送った人ですね。

第百五十二段日野資朝卿から年老いたムク犬を献上されたのもこの西園寺実兼です。今回の段には登場してないですけど、脇役でちょいちょい出てくるんですね、この人。

久我通基のほうは、その後1297年、従一位に昇叙はしますが、1309年に亡くなっています。
おそらく、この段の話は晩年近くだと思われますね。

小袖&大口袴っていうのは、雑な感じ、ラフな、もっと言うと部屋着に近い服装と思っていいんじゃないでしょうか。
現代で言うと、Yシャツとかテーラードジャケットじゃなく、Tシャツとかポロシャツという感じで、ボトムスはチノパンとかジーンズのイメージに近い。

話の内容だけみると、一見平和な、というか、のどかな印象さえ感じさせます。
が、久我通基はおそらく、今で言うところのアルツハイマー認知症統合失調症うつ病などのいずれかであった可能性がありますね。

この段も現在の社会通念で捉えると、非常に繊細な問題が含まれていて論評は難しいのです。

ただ、最後の行で兼好法師が、通基が心身ともに元気だった時のことを述懐しています。
悪意はなく、むしろ敬愛の念があったということは窺えますね。


【原文】

ある人、久我縄手を通りけるに、小袖に大口きたる人、木造の地藏を田の中の水におしひたして、ねんごろに洗ひけり。心得がたく見るほどに、狩衣の男二人三人出で來て、「こゝにおはしましけり」とて、この人を具して去にけり。久我内大臣殿にてぞおはしける。

尋常におはしましける時は、神妙にやんごとなき人にておはしけり。


検:第195段 第195段 或人、久我縄手を通りけるに 或人久我縄手を通りけるに

第百九十四段 達人が人を見る目は、少しも間違うことはない

達人が人を見る目は、少しも間違うことはないでしょう

たとえば、誰かが世間に嘘を語って人を騙そうとした時、次のような人がいますね
①素直にホントのことだと信じて、言うままに騙される人
②あまりにも深く信じ込んで、さらにあれこれ嘘を自分の感じたまま盛っちゃう人
③何とも思わないで、注意さえしない人
④「少しおかしいな」と思って、信じるでもなく、信じないでもなく、考え込んでいる人
⑤「本当っぽくは思えないけど、人の言ってることなら、そういうこともあるだろう」って、それ以上追及するのを止める人
⑥あれこれと思いめぐらせて、理解した風に賢そうな感じで頷いて微笑んでるけど、全然わかってない人
⑦推理した結果、「ああ、そうだよなー」と思いながらも「やっぱ違うんじゃね?」と怪しむ人
⑧「違うって感じでもなかったんじゃない?」って、手を叩いて笑う人
⑨嘘だってことはわかってるけど、「わかってる」とは言わず、知らなくもないこと(つまりたしかに知ってること!)について、とやかくは言わず、知らない人と同じようにやり過ごす人
⑩その嘘の意図を最初からわかってて、少しも否定はせず、嘘を言い出した人と同じスタンスで、協力までする人

愚か者たちの戯れ事でさえ、物の道理がわかってる人の前では、こうしたさまざまな反応が、言葉からも表情からも、露見してしまうに違いない
ましてや、道理に明るい人が迷ってる我々を見るってことは、手の平の上の物を見るようなもんさ
ただし、このような推量で、仏法までを同じように言うべきではありませんね


----------訳者の戯言---------

最後の一文が謎なので、少し調べてみました。

仏教においては、嘘を肯定する話を用いて道理を説くことがあるようです。
所謂「嘘も方便」というやつですね。
そういうのがあるらしい、ということはなんとなく私も知ってましたが…。
「仏法」ってそのことだったのか。

即ち、仏教の道理を会得したり、人を救済するための「嘘」は、別次元のもので、こうした「仏法」で言うところの「嘘も方便」の「嘘」までも、この段で語ってきたような愚者の虚言なんかと同列に扱ってはいかんよ、ということでしたのね。
そんな感じかなーと思ってはいましたが、あまりにも思っていたとおりなので、新鮮ですね、逆に。

嘘(らしきこと)を言われた場合、それに対するリアクションを人間行動学あるいは心理学的に類型化したのが、この段です。
むしろ主題はこっちですね。達人の眼力とか嘘も方便の話よりも。
しかし、まあこんだけ細かく書いてるんですから、たしかにどれかには当てはまりそうですね。


【原文】

達人の人を見る眼は、少しも誤る處あるべからず。

たとへば、ある人の、世に虚言を構へ出して、人をはかることあらんに、素直に眞と思ひて、いふ儘にはからるゝ人あり。あまりに深く信をおこして、なほ煩はしく虚言を心得添ふる人あり。また何としも思はで、心をつけぬ人あり。又いさゝか覚束なく覚えて、頼むにもあらず、頼まずもあらで、案じ居たる人あり。又まことしくは覺えねども、人のいふことなれば、さもあらんとて止みぬる人もあり。又さまざまに推し心得たるよしして、賢げに打ちうなづき、ほゝゑみて居たれど、つやつや知らぬ人あり。また推し出して、「あはれ、さるめり」と思ひながら、なほ誤りもこそあれと怪しむ人あり。また、異なるやうも無かりけりと、手を打ちて笑ふ人あり。また、心得たれども、知れりともいはず、覚束なかなからぬは、とかくの事なく、知らぬ人と同じやうにて過ぐる人あり。また、この虚言の本意を、初めより心得て、すこしも欺かず、構へ出だしたる人とおなじ心になりて、力をあはする人あり。

愚者の中の戯だに、知りたる人の前にては、このさまざまの得たる所、詞にても顔にても、かくれなく知られぬべし。まして、あきらかならん人の、惑へるわれらを見んこと、掌の上のものを見んがごとし。たゞし、かやうのおしはかりにて、佛法までをなずらへ言ふべきにはあらず。


検:第194段 第194段 達人の人を見る眼は

第百九十三段 道理をわかってない人が、他人を推し量って

物事の道理をわかってない人が、他人に見当つけてその人の知的レベルがわかった!なんて思っても、それ全然、的外れに決まってるよね

人としては未熟なんだけど、碁を打つことに関してだけは鋭くて上手い人が、賢明なんだけど囲碁に関しては下手な人を見て、自分の知性には及ばないさ、なんて決めつけたり、各分野のマエストロ的な人が、自分の専門分野のことを他人が理解できないからって、自分は優秀、なんて思うのは大間違いなワケでしょ
理論派の僧と修行実践派の僧とが、互いに相手の力量を類推して、それぞれ、相手は自分のレベルには及ばない、なんて思うのは、どっちも当たってないさ

自分のテリトリー外のものを、争うべきじゃないし、良し悪しも言うべきじゃないんだよね


----------訳者の戯言---------

アンタには言われたくない、っていうケース、多々ありますからね。

けど逆に、専門外だからこそ問題点が鮮明に見えること、おかしいと感じることもありますし。
会社でも社外取締役はいたほうがいいでしょうし、ユーザーのモニタリングなども重要です。

日本相撲協会なんかも、もうちょっと一般人の論理や意見を聞き入れるべきなんですけどね。
八角理事長はもうちょっと考えないとな。


【原文】

くらき人の、人をはかりて、その智を知れりと思はむ、更に當るべからず。

拙き人の、碁うつことばかりに敏く、たくみなるは、賢き人の、この藝におろかなるを見て、おのれが智に及ばずと定めて、萬の道のたくみ、わが道を人の知らざるを見て、おのれ勝れたりと思はむこと、大きなるあやまりなるべし。文字の法師、暗證の禪師、互にはかりて、おのれに如かずと思へる、共にあたらず。

己が境界にあらざるものをば、爭ふべからず、是非すべからず。


検:第193段 第193段 くらき人の、人をはかりて

第百九十二段 神仏にも、人が参詣しない日の夜

神仏にも、人が参詣しない日の夜、参詣するのがいい


----------訳者の戯言---------

短い…。
前の段のつけたし感ハンパない。


【原文】

神佛にも、人の詣でぬ日、夜まゐりたる、よし。


検:第192段 第192段 神仏にも、人の詣でぬ日 神仏にも、人のまうでぬ日

第百九十一段 「夜になったら物の見栄えがよくない」と言う人は、すごく残念

「夜になったら物の見栄えがよくないよな」なんて言う人は、すごく残念だよ
あらゆる煌びやかな物々、装飾、ハレの場所なんかも、夜が最高に素敵に見えるものなのにさ
昼はシンプルで、地味めなスタイルでもOKかもしれないが
でも夜は、派手めで華やかな衣装がすごくいいんだよね
人の感じも、夜の燈火に照らされてる姿が、素敵な人はいっそう素敵に見え、話し声も、暗いところで聞くのは、気配りがあって心憎く感じられるよ
香りも楽器の音も、ただ夜のほうがひときわ素晴らしいんだ

さほど特別な用事も無い夜、夜更けになってやって来た人が、シュッとしてて清潔感があるのは、すごくいいね
若い者同士、お互いファッションチェックし合う人っていうのは、時間帯なんか関係ないんだから、特に気を抜いてしまいがちな時だって、ケもハレも区別なく、身だしなみはちゃんとしておきたいもんさ
イケてる男が日が暮れてから髪を洗って整髪したり、女も夜が更ける頃そっと席を外して鏡を取り出し、化粧直しをして再び席に戻るのは素敵なことだね


----------訳者の戯言---------

ケ=日常、ハレ=非日常、としたのは民俗学者柳田國男でしたかね。


【原文】

「夜に入りて物のはえ無し」といふ人、いと口惜し。萬の物の綺羅・飾り・色ふしも、夜のみこそめでたけれ。晝は、事そぎ、およすげたる姿にてもありなむ。夜は、きらゝかに花やかなる裝束、いとよし。人のけしきも、夜の火影ぞ、よきはよく、物いひたる聲も、暗くて聞きたる、用意ある、心憎し。匂ひも、物の音も、たゞ夜ぞ、ひときはめでたき。

さして異なる事なき夜、うち更けて參れる人の、清げなる樣したる、いとよし。若きどち、心とどめて見る人は、時をも分かぬものなれば、殊にうちとけぬべき折節ぞ、褻・晴れなく引きつくろはまほしき。よき男の、日くれてゆするし、女も、夜更くる程にすべりつゝ、鏡とりて顔などつくろひ出づるこそをかしけれ。


検:第191段 第191段 夜に入りて物のはえなしといふ人 夜に入りて物の映えなしといふ人 「夜に入りて物のはえ無し」といふ人