徒然草 現代語訳 吉田兼好

徒然草を現代語訳したり考えたりしてみる

吉田兼好の徒然草を現代の言葉で書いたり、読んで思ったことを書いています。誤訳や解釈の間違いがありましたらぜひご指摘ください。(序段---冒頭文から順番に書いています。検索窓に、第〇〇段、またはキーワードを入力していただけばブログ内検索していただけると思います)

第百九十五段 ある人が久我縄手を通ってたら

ある人が久我縄手を通ってたら、小袖に大口袴を着た人が、木造りの地蔵を田の中の水に浸して念入りに洗っておりました
事情がわからず見てたんですが、狩衣を着た男性が2、3人出てきて、「ここにいらっしゃったよ!」と言って、この人を連れ去ってしまったんです
久我内大臣(久我通基)殿でいらっしゃいました
健康でいらした時は、立派で上品な方でございましたよ


----------訳者の戯言---------

今の京都・伏見区の久我(こが)に久我縄手っていう道路があったらしいです。
縄手というのは、あぜ道。あるいはまっすぐな長い道。
畷(なわて)とも書きます。
大阪の四条畷の「畷」も同意だそうです。

久我(こが)家のお屋敷が、この久我のあたりにあったんでしょうね。
久我家は村上源氏嫡流だったそうですが、同じ村上源氏の堀川家、土御門家なども勢力を強めてきたので、久我通基にはその焦り、心労もあったのではないでしょうか。

1288年頃、それまでの要職を解かれた久我通基。
齢48歳くらいだったとのことです。
通基に取って代わって、右近衛大将、および内大臣に就いたのが西園寺実兼という人物です。

西園寺実兼第百十八段に出てきました。
時の帝、後醍醐天皇に娘を嫁がせ、外戚関係を結んで権力を拡大した人でした。
食材のストック棚に「雁」があったのを見て、ちょっと…と娘に手紙を送った人ですね。

第百五十二段日野資朝卿から年老いたムク犬を献上されたのもこの西園寺実兼です。今回の段には登場してないですけど、脇役でちょいちょい出てくるんですね、この人。

久我通基のほうは、その後1297年、従一位に昇叙はしますが、1309年に亡くなっています。
おそらく、この段の話は晩年近くだと思われますね。

小袖&大口袴っていうのは、雑な感じ、ラフな、もっと言うと部屋着に近い服装と思っていいんじゃないでしょうか。
現代で言うと、Yシャツとかテーラードジャケットじゃなく、Tシャツとかポロシャツという感じで、ボトムスはチノパンとかジーンズのイメージに近い。

話の内容だけみると、一見平和な、というか、のどかな印象さえ感じさせます。
が、久我通基はおそらく、今で言うところのアルツハイマー認知症統合失調症うつ病などのいずれかであった可能性がありますね。

この段も現在の社会通念で捉えると、非常に繊細な問題が含まれていて論評は難しいのです。

ただ、最後の行で兼好法師が、通基が心身ともに元気だった時のことを述懐しています。
悪意はなく、むしろ敬愛の念があったということは窺えますね。


【原文】

ある人、久我縄手を通りけるに、小袖に大口きたる人、木造の地藏を田の中の水におしひたして、ねんごろに洗ひけり。心得がたく見るほどに、狩衣の男二人三人出で來て、「こゝにおはしましけり」とて、この人を具して去にけり。久我内大臣殿にてぞおはしける。

尋常におはしましける時は、神妙にやんごとなき人にておはしけり。


検:第195段 第195段 或人、久我縄手を通りけるに 或人久我縄手を通りけるに