徒然草 現代語訳 吉田兼好

徒然草を現代語訳したり考えたりしてみる

吉田兼好の徒然草を現代の言葉で書いたり、読んで思ったことを書いています。誤訳や解釈の間違いがありましたらぜひご指摘ください。(序段---冒頭文から順番に書いています。検索窓に、第〇〇段、またはキーワードを入力していただけばブログ内検索していただけると思います)

第百三十七段④ 葵の葉を

何にっていうわけではなくいろんなところに葵の葉を掛け渡してるのが優美な感じで、まだ夜が明けきらない頃に、ひっそりとやって来る牛車に心がときめいて、乗っているのはこの人か、あの人かなーなんて思いを寄せてると、牛飼いや下僕などの知ってる人もいたりするんだよ
趣向が凝らされ、きらびやかに飾って、車がさまざまに行き交ってる様子は、見ているだけでも退屈しないよね
日が暮れる頃には、立ち並んでた多くの牛車も、所狭しと並んでた人たちも、どこに行っちゃったのか、しばらくしたら閑散としてきて、車があれだけ騒々しかったのも静まって、簾も畳も取り払われて、目の前で次第に寂しい感じになっていくのも、これこそ世の習いだと思ってね、いい情緒を感じるんだよ
こうして大通りを見ることこそが、実は祭を見るってことなんだよね


----------訳者の戯言---------

えーこの段で出てくる「祭」ですが、葵祭です。今さらですが。
昔は京都で祭と言ったら葵祭のことだったらしい。
で、葵祭というのは賀茂神社のお祭りで、やっぱり貴族のものなのね。
源氏物語にも出てきます。

祇園祭もあるけど、祇園祭のほうがだいぶ後のものだし、どっちかっていうと町人のお祭りなんですってね。

どっちもやけど、あれは見て面白いものなのか?
面白さを求めるものじゃないんですよね、たぶん。
すみません。

そーいうわけで第百三十七段⑤に続きます。

【原文】

何となく葵かけ渡して なまめかしきに、明けはなれぬほど、忍びて寄する車どものゆかしきを、其か、彼かなどおもひよすれば、牛飼下部などの見知れるもあり。をかしくも、きらきらしくも、さまざまに行きかふ、見るもつれづれならず。暮るゝ程には、立て竝べつる車ども、所なく竝みゐつる人も、いづかたへか行きつらん、程なく稀になりて、車どものらうがはしさも濟みぬれば、簾・疊も取り拂ひ、目の前に寂しげになり行くこそ、世のためしも思ひ知られて、哀れなれ。大路見たるこそ、祭見たるにてはあれ。


検:第137段 第137段 花は盛りに、月は隈なきをのみ見るものかは