徒然草 現代語訳 吉田兼好

徒然草を現代語訳したり考えたりしてみる

吉田兼好の徒然草を現代の言葉で書いたり、読んで思ったことを書いています。誤訳や解釈の間違いがありましたらぜひご指摘ください。(序段---冒頭文から順番に書いています。検索窓に、第〇〇段、またはキーワードを入力していただけばブログ内検索していただけると思います)

第百八段 少しの時間を惜しむ人っていない

少しの時間を惜しむ人っていないもんだよね
これは物事をよくわかってのことなのか、それとも何も考えずに愚かなだけなのか…
愚かで怠け者の人のために言うと、一銭は軽くっても、これを積み重ねたら、貧しい人をお金持ちにできるんですよね
だから商人が一銭を惜しむ心は、大切なんですよ
一瞬という短い時間は意識してなくたって、これをずっとずっと過ごし続けると、命を終える時がすぐやって来るんだよね

だから、仏教の修行をする人は、ずっと遠くに至る長い月日、その日々を惜しんではいけないんですよ
ただ今のこの思いが、空しく過ぎ去ってしまうことを惜しむべきなんだよね
もし人が来て、私の命が明日必ず失われるだろうよって告知したら、今日という一日が暮れるまでの間、何を願い、何をするだろう
我々が生きている今日という一日が、どうしてその(明日死んでしまう)一日と違うっていうんだろうか
(違わないよね、だから、大切にしなくちゃいけないんだよね)

一日のうちでも、飲食、トイレ、睡眠、おしゃべり、移動なんかの、やむを得ないことで結構な時間を費やすものなんだ
それ以外の時間なんてそんなに無いけど、そんな中で、さらに無益なことをして、無益なことを言い、無益なことを考えて時を過ごすだけでなく、いろいろと日を浪費し月を経過して一生を送るって、まったく愚かなことなんだよ

(中国南北朝時代文人)謝霊雲は、法華経の翻訳をしてたんだけど、心の中では常に時勢の成り行きをうまく利用して出世してやろうと思ってたので、(中国浄土教創始者)恵遠は、彼が念仏結社の白蓮社の仲間に加わることを許さなかったんですよ
ほんの短い間でも、一瞬という短い時間を惜しむ心が無い時は、死人と同じだよね
一瞬を何のために惜しむかといえば、内には雑念を無くし、外には俗世の事との交わり無くし、悪を止めようとする人は止め、善を行おうとする人は行えということなんだよ


----------訳者の戯言---------

いらんことせんと、一瞬一瞬時間を無駄にせず生きろということですね。
私ですね、スミマセン。


【原文】

寸陰惜しむ人なし。これよく知れるか、愚かなるか。愚かにして怠る人の爲にいはば、一錢輕しといへども、これを累ぬれば、貧しき人を富める人となす。されば、商人の一錢を惜しむ心、切なり。刹那覺えずといへども、これを運びてやまざれば、命を終ふる期、忽ちに到る。

されば、道人は、遠く日月を惜しむべからず。ただ今の一念、空しく過ぐることを惜しむべし。もし人來りて、わが命、明日は必ず失はるべしと告げ知らせたらんに、今日の暮るゝ間、何事をか頼み、何事をか營まむ。我等が生ける今日の日、何ぞその時節に異ならん。一日のうちに、飮食・便利・睡眠・言語・行歩、止む事を得ずして、多くの時を失ふ。その餘りの暇、いくばくならぬうちに無益の事をなし、無益の事を言ひ、無益の事を思惟して、時を移すのみならず、日を消し、月をわたりて、一生をおくる、最も愚かなり。

謝靈運は法華の筆受なりしかども、心、常に風雲の思ひを觀ぜしかば、惠遠・白蓮の交はりをゆるさざりき。しばらくもこれなき時は、死人に同じ。光陰何のためにか惜しむとならば、内に思慮なく、外に世事なくして、止まむ人は止み、修せむ人は修せよとなり。

 

検:第108段 第108段 寸陰惜しむ人なし