徒然草 現代語訳 吉田兼好

徒然草を現代語訳したり考えたりしてみる

吉田兼好の徒然草を現代の言葉で書いたり、読んで思ったことを書いています。誤訳や解釈の間違いがありましたらぜひご指摘ください。(序段---冒頭文から順番に書いています。検索窓に、第〇〇段、またはキーワードを入力していただけばブログ内検索していただけると思います)

第八十段 自分の専門からかけ離れてること

みんな誰でも、自分の専門からかけ離れてることばっかりやりたがるよね
僧侶が武の道を極めようとしたり、野蛮な武者が弓の引き方を知らないのに仏法は知ってる風で、連歌を詠み、管弦を嗜んでる
でも、それって、自分の専門分野が中途半端だってことにも増して、もっと人に馬鹿にされることなんじゃないかな

お坊さんだけではないですよ
上達部、殿上人といった身分の高い人々まで、だいたいが武の道を好きな人って多いんです
でも仮に百回戦って百回勝っても、まだまだ武勇の名を定めることはできませんよ
だって、ただ運が良くて敵をやっつけただけでも、勇者だって言われるわけですからね
むしろ、兵が尽き、矢が無くなって、それでも最後まで敵に降伏せず、死んで後にこそ、はじめて武勇をあらわすというのが理に適ってますよ

つまりね、生きている間は、武勇を誇れるもんじゃないのよ
武の道は人の倫理からは遠く、鳥や獣に近いふるまいなので、武家に生まれたんじゃなければ、好んでも何の利益もないですよ


----------訳者の戯言---------

たしかに。

吉田兼好の生きた時代って、奇しくも後醍醐天皇の頃、なんですよね。
後醍醐天皇って自ら武力を率いて政権を取った人ですから、歴代の天皇の中でも稀有な存在です。
実は嫌いだったんだろうなと思います、はい。


【原文】

人ごとに、我が身にうとき事をのみぞ好める。法師は兵の道をたて、夷は弓ひく術知らず、佛法知りたる氣色し、連歌し、管絃を嗜みあへり。されど、おろかなる己が道より、なほ人に思ひ侮られぬべし。

 法師のみにもあらず、上達部、殿上人、上ざままで おしなべて、武を好む人多かり。百たび戰ひて百たび勝つとも、いまだ武勇の名を定めがたし。その故は運に乘じて敵を砕く時、勇者にあらずといふ人なし。兵盡き、矢窮りて、遂に敵に降らず、死を安くして後、はじめて名を顯はすべき道なり。生けらんほどは、武に誇るべからず。人倫に遠く、禽獸に近き振舞、その家にあらずば、好みて益なきことなり。

 

検:第80段 第80段 人ごとに、我が身にうとき事をのみぞ好める 人ごとに我が身にうとき事をのみぞ好める