徒然草 現代語訳 吉田兼好

徒然草を現代語訳したり考えたりしてみる

吉田兼好の徒然草を現代の言葉で書いたり、読んで思ったことを書いています。誤訳や解釈の間違いがありましたらぜひご指摘ください。(序段---冒頭文から順番に書いています。検索窓に、第〇〇段、またはキーワードを入力していただけばブログ内検索していただけると思います)

第五十八段 仏道を極めようという気持ちさえあれば

仏道を極めようという気持ちさえあれば、住むところなんか関係ないと思う。家にいて、人と交流したって、来世の往生を願うのに、何か問題あります?」なんて言うのは、まったく来世のことを知らない人ですね
実際この世をはかなんで、絶対、迷いの境地から抜け出しちゃおうって思うんだったら、どんないいことがあると思って、日々主君に仕えたり、家のための営業のほうをがんばっちゃったりするの?
気持ちっていうのは、環境で変わって行くもんなんやから、回りが静かじゃないと仏道の修行は難しいんですよ

持ってる器量が昔の人には全然及ばなくて、山林に入っても飢えをしのいだり、嵐を防ぐ方法も知らないんだったら、当然生きていかれへんのやから、成り行きで「世を貪る」みたいなことも、もちろん場合によってはあり得るのはわかる
でも、だからと言って「だったら出家した甲斐が無いでしょ。こんなんやったら、なぜに俗世を捨てたんじゃろうかのー」なんてのは、ちょっと違うよーな

さすがに一度仏の道に入って俗世を離れた人っていうのは、仮に欲望があっても、俗世のイケイケな人の欲深さの度合いとは比べものにはなりませんね
紙の掛け布団、麻の衣服、一鉢だけのご飯、藜(あかざ)の汁物、こんなのにどんだけ費用がかかります? かからんでしょ
求めるものが簡単に手に入るものなんで、心だってすぐ満たされちゃうんですよね
で、僧侶の格好をしてると恥ずかしいように思うとこもあるんで、欲が多少あると言ったって、悪いことはできないし、善に近づくことだけが多くなってくるんですわ

人として生まれた証拠として、なんとかして出家隠遁することこそ理想的!
やたらと貪ることばっかりに一生懸命で、悟りの境地なんて全然求めようとしないなんてのは、他の動物たちと何にも変わらないじゃないですか


----------訳者の戯言----------

他の動物たちに失礼。みんな頑張って生きてるぞ。

さて、今は麻のシャツとかジャケットとか、まあまあ高い。おしゃれとも言われます。
しかし、当時はやっぱり貴族や僧侶は絹織物の着物が主流だったんですね。木綿はあまり国内では生産されず、戦国時代くらいまでは輸入メインだったらしい。もちろんウールなんて、もっともっと後ですし。

つまり、庶民の服はやはり麻だったんですね。
先にも書いたとおり、麻は夏物にはいいんだけど、冬は寒いですよね、どっちかと言うと。
庶民は年中、麻の着物。で、隠遁した僧侶は、粗末な着物=麻だったわけですね。

道を追求するには、環境や見かけを変えることが必要だよね、ってことかな。


【原文】

「道心あらば住む所にしもよらじ、家にあり人に交はるとも、後世を願はむに難かるべきかは」と言ふは、更に後世知らぬ人なり。げにはこの世をはかなみ、必ず生死を出でむと思はむに、何の興ありてか、朝夕君に仕へ、家を顧る營みの勇ましからん。心は縁にひかれて移るものなれば、靜かならでは道は行じがたし。

その器物、昔の人に及ばず、山林に入りても、飢をたすけ、嵐を防ぐよすがなくては、あられぬわざなれば、おのづから世を貪るに似たる事も、便りに觸れば、などか無からん。さればとて、「背けるかひなし。さばかりならば、なじかは捨てし」などいはんは、無下の事なり。さすがに一たび道に入りて、世をいとなむ人、たとひ望みありとも、勢ひある人の貪欲多きに似るべからず。紙の衾、麻の衣、一鉢のまうけ、藜の羮、いくばくか人の費をなさむ。求むる所はやすく、その心早く足りぬべし。形に恥づる所もあれば、さはいへど、惡には疎く、善には近づくことのみぞ多き。

人と生れたらんしるしには、いかにもして世を遁れむ事こそあらまほしけれ。偏に貪ることをつとめて、菩提に赴かざらむは、よろづの畜類にかはる所あるまじくや。

 

検:第58段 第58段 道心あらば、住む所にしもよらじ 道心あらば住む所にしもよらじ