第五段 何かを期待したりせずひっそりと
不幸で、憂鬱になって、落ち込んだ人が、軽々しく出家しようなんて思ったんじゃなくて
いるのかいないのかわからない感じで、何かを期待したりせずひっそり日々暮らしている、そういうののほうが理想的なのよ
あの顕基中納言が「流刑地での美しい月、できれば罪の無い身の上で見たいものだ」って言ったのも、そのとおりだと思うんですよね
----------訳者の戯言----------
顕基中納言とは、本名・源顕基という人のことだそうで、後一条天皇の側近として仕えた人のようです。
そして「十訓抄」という書物には、源顕基、後一条天皇崩御後、「忠臣二君に仕えず」として出家してしまったとも書かれているようですね。法名は円照です。
後一条天皇は、あの「この世をば我が世とぞ思ふ~」と詠んだ藤原道長の娘の子です。8歳で即位していますから、当然摂政である道長が実権を持っていたでしょう。
で、話は元に戻りますが、源顕基。後一条天皇が即位してすぐ側近として採用されています。この時、源顕基は16歳。天皇に信頼されて、らしいけど、8歳の子どもに信頼されるってあるのか。むしろ道長に、だろう。それとも子どもに好かれるいい兄ちゃんだったのか。いずれにしてもそんな若くて天皇の側近ですからね。すごいっちゃあすごい。子どもの遊び相手ですか?
家柄は上流貴族なので、14歳ぐらいですでにまあまあの官職、中央官庁の管理職クラスに就いていたようです。いきなり。当時は労基法もなかったですからね。けど、14歳のお子様の下で働く大人、どう思っていたんでしょうね。15歳ぐらいの時には備前(岡山のあたり?)の国司(介)になっています。とんとん拍子の出世。今で言えば副知事レベルでしょ。15で。いいのかそれ。
ま、実際はお飾り、看板みたいなものなのでしょうけどね。
そして後一条天皇は29歳で若くして崩御されます。源顕基はこの時36歳ぐらいなんですけど、出家してしまう、と。で、隠遁の生活に入るというのが、この段で書かれていることですね。なんか、無実の罪で流刑されたということもあったらしい。
【原文】
不幸に愁に沈める人の、頭おろしなど、ふつゝかに思ひとりたるにはあらで、有るか無きかに門さしこめて、待つこともなく明し暮らしたる、さるかたにあらまほし。
顯基中納言のいひけん、「配所の月、罪なくて見ん事」、さも覚えぬべし。
検:第5段 第5段 不幸に愁にしづめる人の 不幸に愁に沈める人の