徒然草 現代語訳 吉田兼好

徒然草を現代語訳したり考えたりしてみる

吉田兼好の徒然草を現代の言葉で書いたり、読んで思ったことを書いています。誤訳や解釈の間違いがありましたらぜひご指摘ください。(序段---冒頭文から順番に書いています。検索窓に、第〇〇段、またはキーワードを入力していただけばブログ内検索していただけると思います)

第二百三十二段 あらゆる人は、学が無く、芸も無くてしかるべき

あらゆる人は、学が無く、芸も無くてしかるべきものなんです
ある人の子どもで、容姿なんかは悪くないんですけど、父の前で人とディスカッションしたときに、中国の歴史書の言葉を引用してたのは、賢いとは思えたけれども、上位の人の前ではそんなことしなくても、と思いましたよ

また、ある人のところで、琵琶法師の物語を聞こうということで、琵琶を取り寄せたんだけど、「柱(じゅう)」が一つ落ちたので、「作ってつけなさい」と言ったんですが、男たちの中で身分の低そうでもなさそうな人が「使い古しのひしゃくの柄があったかなー」なんて言うので見てみたら、爪をのばしてるんです
ってことは、琵琶なんか弾くに違いないんですね
盲目の琵琶法師の琵琶に、ひしゃくの柄を使ってまでのこと、しなくていいですよ
自分が琵琶の道を心得てるとでも思ってるんだろうか、と、こっちが気恥ずかしかったです
「ひしゃくの柄は檜物木(ひものぎ)とかいって、よくないものなんだよ」とも、ある人はおっしゃってたんですよね

若い人のやることは、ほんのちょっとしたことでも、よく見えたり、悪く見えたりするものなんですよ

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----------訳者の戯言---------

琵琶の柱については第七十段でも出てきましたね。
柱が外れちゃってて「そくひ」っていう糊でくっつけた話でした。

檜物木(ひものぎ)っていうのは檜や杉の材木のことです。

彼は、目の見えない琵琶法師が使うんだから、そんなひしゃくの柄をつぶして作るまでもないだろう、って言ってるわけですよね。
けど、私、別の意味でですが、楽器にひしゃくの柄を使ったらダメだと思うんです、そもそも。
楽器ってデリケートなもんですからね。

じゃあ、ひしゃくの柄をつぶして作るのがだめなら何で作るのがいいんでしょうか?
そもそも、そこで指示した人は何で作ってほしかったんでしょうか。
そして、楽器として正しいのは何の材なんでしょうか?
そっちのほうが気になりますね。

ネットで調べたところ、どうも現代の琵琶の柱は柘植(つげ)で作るみたいですね。
柘植は櫛を作る材として知られていますし、私もそのように認識していますが、昔から琵琶の柱もこれで作っていたんでしょうかね。
硬くて狂いが少ないらしいですから、たしかに楽器のパーツ向きな気はします。

兼好は、若い人がイキってる感じが嫌なのかなと思いますね。
今で言うなら、意識高い系、みたいな。
最後の一文にも、「若い奴っていうのは…」って言いたい気持ちが出てますもんね。


【原文】

すべて人は、無智無能なるべきものなり。ある人の子の、見ざまなど惡しからぬが、父の前にて、人と物いふとて、史書の文をひきたりし、賢しくは聞えしかども、尊者の前にては、然らずともと覺えしなり。
またある人の許にて、琵琶法師の物語をきかんとて、琵琶を召しよせたるに、柱のひとつ落ちたりしかば、「作りてつけよ」といふに、ある男の中に、あしからずと見ゆるが、「ふるき柄杓の柄ありや」などいふを見れば、爪をおふしたり。琵琶など彈くにこそ。めくら法師の琵琶、その沙汰にもおよばぬことなり。道に心えたる由にやと、かたはらいたかりき。「ひさくの柄は、ひもの木とかやいひて、よからぬものに」とぞ、或人仰せられし。

若き人は、少しの事も、よく見え、わろく見ゆるなり。


検:第232段 第232段 すべて人は、無智無能なるべきものなり すべて、人は、無智・無能なるべきものなり