徒然草 現代語訳 吉田兼好

徒然草を現代語訳したり考えたりしてみる

吉田兼好の徒然草を現代の言葉で書いたり、読んで思ったことを書いています。誤訳や解釈の間違いがありましたらぜひご指摘ください。(序段---冒頭文から順番に書いています。検索窓に、第〇〇段、またはキーワードを入力していただけばブログ内検索していただけると思います)

第二百二十六段 「七徳の舞」

後鳥羽院が治められてた時代、信濃前司行長が、学問のデキる人として有名だったんで、漢詩の楽府について御前で討論するパネリストとして招集されたんだけど、その時「七徳の舞」のうち二つの「徳」を忘れてしまってたがために「五徳の冠者」ってあだ名をつけられたんだよね
で、傷ついちゃって、学問を捨てて世を逃れてたんだけど、(天台宗トップの)慈鎮和尚が当時、一芸ある者を身分が低い者でも召し抱えて面倒を見ていらっしゃってて、この信濃(行長)入道も支援なさったんだ

この行長入道が「平家物語」を作って、生仏という盲目の者に教えて語らせたんだよ
それで山門、つまり天台宗総本山・比叡山延暦寺のことを、特に尋常じゃなくいっぱい書いてるんだよね
九郎判官義経のことは詳しく知ってて書き載せてるよ
蒲冠者(源範頼)のことは、よく知らなかったのか、多くのことを書き漏らしてるね
武士のことや弓馬の技については、生仏が東国の出身者なので、武士に聞いて書かせたんだ
その生仏の生まれつきの声を、今の琵琶法師は学んでいるのだよ


----------訳者の戯言---------

楽府っていうのは漢詩の形式の一つなんですね。
「七徳の舞」っていうのは、その楽府っていう分類の漢詩なんだそうですけど、本当の題名は「秦王破陣楽」というらしい。
「七徳の舞」は実は別名なんですね。

この「七徳の舞(=秦王破陣楽)」というのは、唐の第2代皇帝である太宗の武勇を称えて作られたらしいです。後に振り付けは自分でやった、っていう話も残っているみたいですね。
この「七徳」っていうのはそもそもは「春秋左氏伝」という、「春秋」(孔子の編纂と伝えられてる歴史書)の注釈書の中に書いてあるんだとか。
具体的には「武の持つ七つの徳。一に暴を禁じ、二に兵をおさめ、三に大を保ち、四に功を定め、五に民を安んじ、六に衆を和し、七に財を豊かにすること」と書かれてたらしいんです。

私なんかは難しくてよくわかりませんし、覚えられませんけど、この七徳のうち2コを忘れちゃってたワケですね、行長、残念なことに。

で、つけられたあだ名が「五徳冠者」。
冠者っていうのは、元服を済ませて、冠を着けている少年とか、若者のことなんです。
若い人を指してこう言うのならいいんですけど、まあまあいい歳の大人を「冠者」と呼ぶってことは、言ってみれば、坊や、お兄ちゃん、ヤングマン、若者、みたいな感じで、さらに馬鹿にしてるっていうか、かなり不名誉な呼び方ではありますわね。
世の中というのはひどいものです。

たしかに、斉藤由貴の不倫相手の医者のことを「パンツかぶった人」とか「パンツかぶり」とか言っちゃいますしね。
細野豪志は「モナ男」ですからね、今も。
私もひどいです。
豊田真由子元議員は「真由子さま」ですね。これは別にいいですか。

さて、慈鎮和尚というのは、天台宗の高僧の一人で、慈円という人のおくり名です。
愚管抄」を書いた人として有名ですかね。
当時は天台宗の座主(トップ)だったようです。
今回の逸話からして、人格者だったことがわかります。

さて、「平家物語」については、現代になってもまだ作者は不詳のままです。
兼好の説も根拠がないみたいですからね。
生仏(しょうぶつ)という人は、たぶん盲目の琵琶法師だったんでしょう。
しかしこれについても、残念ながら典拠が無いようです。


【原文】

後鳥羽院の御時、信濃前司 行長 稽古の譽ありけるが、樂府の御論議の番に召されて、七徳の舞を二つ忘れたりければ、五徳の冠者と異名をつきにけるを、心憂き事にして、學問をすてて遁世したりけるを、慈鎭和尚、一藝ある者をば下部までも召しおきて、不便にせさせ給ひければ、この信濃入道を扶持し給ひけり。

この行長入道、平家物語を作りて、生佛といひける盲目に教へて語らせけり。さて、山門のことを、殊にゆゝしく書けり。九郎判官の事は委しく知りて書き載せたり。蒲冠者の事は、能く知らざりけるにや、多くの事どもを記しもらせり。武士の事・弓馬のわざは、生佛、東國のものにて、武士に問ひ聞きて書かせけり。かの生佛がうまれつきの聲を、今の琵琶法師は學びたるなり。


検:第226段 第226段 後鳥羽院の御時、信濃前司行長