徒然草 現代語訳 吉田兼好

徒然草を現代語訳したり考えたりしてみる

吉田兼好の徒然草を現代の言葉で書いたり、読んで思ったことを書いています。誤訳や解釈の間違いがありましたらぜひご指摘ください。(序段---冒頭文から順番に書いています。検索窓に、第〇〇段、またはキーワードを入力していただけばブログ内検索していただけると思います)

第二百二十五段 白拍子のルーツ

多久資(おおのひさすけ)が申したことには、
「通憲入道が、舞の手の中で趣のあるものを選んで、磯の禅師という女に教えて舞わせたんだ。白い水干に、鞘巻(鞘の無い短刀)を差させ、烏帽子をかぶらせて男のような恰好で舞わせたので、男舞と言ったんだよ。その磯の禅師の娘で静というのが、この芸を継いだのね。それが白拍子のルーツなんだよね。仏や神の由来、起源を歌うものなのさ。その後、源光行が多くの歌詞を作ったんだ。後鳥羽院の作られた詞もあるよ。これは亀菊にお教えになったということなんだ」


----------訳者の戯言---------

たくすけって誰よ?と思いましたが、「多久資=おおのひさすけ」でした。
雅楽の奏者なんだとか。

通憲入道っていうのは、信西というお坊さんで、俗名を藤原通憲と言いました。出家した人なので「入道」とついてるわけです。

しかしこの段、全部「伝聞」なんですよね。
気をつけないといけないのは、「いつ頃の話か」というのを整理しないとよくわからなくなるってことです。

まず多久資は1295年に亡くなっていますけど、兼好は1283年頃の生まれですから、直接聞いたとしても10歳くらい以前、子どもの頃っていうことになるんです。
そんなわけはないですから、まずこの話自体、直接聞いてないだろう、伝聞だろう、ってことなんですね。

しかも、多久資の話にしても、まるで直接見たかのように言ってますが、藤原通憲信西っていう人は1160年に亡くなってるわけで。多久資から見てもおよそ100年ほど前の人ですからね。
これまた人づてに聞いた話だろうと。
私たちが明治時代のことをリアルなことのように話してる感じでしょうか。

もちろん、コミュニティの大小とか、情報網とか、メディアとかは全然違いますから、単純な比較は難しいんですけどね。

ちなみに書いておくと、源光行は1244年没、後鳥羽院(=後鳥羽天皇後鳥羽上皇)は1180~1239年の人です。

亀菊というのは、当時の白拍子で、後鳥羽天皇が寵愛した人らしいです。
そのことはここに特に書かれてないですから、亀菊が後鳥羽天皇の愛人だったことは、周知のことっていうか、一般常識なんでしょうね。

白拍子っていうのは、この男舞の別名なんですけど、同時にこの舞いを舞う遊女のことも、こう呼んだんですね。ただ、貴人の屋敷にも出入りしていたので、それなりの見識や教養があったようで、天皇や貴族の妾になった人も多くいたようです。

調べていると、実はこの段の話とは矛盾があるんですが、「平家物語」にも白拍子の起源が書かれていることがわかりました。
鳥羽院の時代に島の千歳、和歌の前という2人が舞いだしたのが白拍子の起こりである」
平家物語に書いてある、とウィキペディアに書かれてます。

つまり、この段、ちょっと真偽の怪しい話ではあるんですね。
平家物語はほぼリアルな時代に書いてますけど、それに比べたら、伝聞の伝聞(もしかしたら、そのまた伝聞、とかかもしれない)ですし、兼好が徒然草を書いてる時点からすると150~200年も前のことですから、信憑性も乏しいんです。

ただ、兼好が平家物語を読んでないはずはありませんから、どういうことなんでしょう。
兼好の読書量、博学はハンパないですから、それだけは今回は謎ですね。

さて、ここで出てきた「静」というのは、源義経の妾であった静御前のことだと思います。
ただ、静の母が磯の禅師(磯禅師)であることは歴史的には間違いないようですね。


【原文】

多久資が申しけるは、通憲入道、舞の手のうちに興ある事どもを選びて、磯の禪師といひける女に教へて、舞はせけり。白き水干に、鞘卷をささせ、烏帽子をひき入れたりければ、男舞とぞいひける。禪師がむすめ靜といひける、この藝をつげり。これ白拍子の根源なり。佛神の本縁をうたふ。その後、源光行、多くの事をつくれり。後鳥羽院の御作もあり。龜菊に教へさせ給ひけるとぞ。


検:第225段 第225段 多久資が申しけるは、通憲入道、舞の手の中に 多久資が申しけるは、通憲入道、舞の手のうちに