徒然草 現代語訳 吉田兼好

徒然草を現代語訳したり考えたりしてみる

吉田兼好の徒然草を現代の言葉で書いたり、読んで思ったことを書いています。誤訳や解釈の間違いがありましたらぜひご指摘ください。(序段---冒頭文から順番に書いています。検索窓に、第〇〇段、またはキーワードを入力していただけばブログ内検索していただけると思います)

第二百二十二段 竹谷乗願房が東二条院の元に参られた時

竹谷乗願房が東二条院の元に参られた時、東二条院が、
「亡くなった人の供養には、何をしたらメリットが多いんでしょうかね」
とお尋ねになられたところ、竹谷乗願房が
「光明真言(こうみょうしんごん)、宝篋院陀羅尼(ほうきょういんだらに)」
と申されたのを、弟子たちが
「どうしてあんな風に申し上げられたんですか? 『念仏に勝るものはございません』とは、なんで申されなかったんです?」
って申したところ、
「我が宗派のことやから、そう申し上げたかったんは山々やけど、ハッキリ言うて、念仏唱えて供養したからいうて、めっちゃようけメリットあるって教えてくれとる経文なんか見たことないし、『何の経文に出てるんですか?』って、もし重ねてご質問になられたら、どう申し上げたもんかなーと思って、根拠となる確実な経文に基づいて、この『真言、陀羅尼』だけをとりあえず申し上げたんや」
と申されたのさ


----------訳者の戯言---------

原文に出てくる「称名」というのは、文字通り仏、菩薩の名を称えること。
狭義では、南無阿弥陀仏を称えることをさします。
ここに登場すしている竹谷乗願房という僧侶は浄土宗の人(法然の弟子)らしいので、まさに「南無阿弥陀仏」の念仏ですね。
ということで、つまり「称名」は、「念仏を唱えること」を意味するらしいですね。
なるほど。

で、「追善」「追福」っていうのは、だいたい同じものらしい。
人の死後7日目ごとに49日までとか、その後百カ日、1周忌なんかに亡くなった人の冥福を祈って法要をやりますよね。
つまりこの仏教の法事と言いますか、供養のことを、こう言うらしいです。

そして本題の「光明真言、宝篋院陀羅尼」です。
簡単に言えば、これ「真言」のことなんですね。
で、そもそも「真言」っていうのは、まあ言うと「真実のことばで仏さまの真理を説き、その徳をたたえる短いお経」のことらしい。
ただ、梵語サンスクリット語)をそのまま音写したものらしいので、勉強してなかったら普通は意味わかるはずないですわね。
その中で、短いものを「真言」といい、比較的長いものを「陀羅尼」と呼ぶそうです。
割とアバウトなもんなん!?

まあ、それはいいとして、竹谷乗願房って人、律儀と言うか、臆病と言うか、生真面目と言うか、そういう描き方です。
真意は定かではないけど、兼好法師的には好意的に書いている感じはしますね。


【原文】

竹谷の乘願房、東二條院へ參られたりけるに、「亡者の追善には、何事か勝利多き」と尋ねさせ給ひければ、「光明眞言、寶篋印陀羅尼」と申されたりけるを、弟子ども、「いかにかくは申し給ひけるぞ。念佛に勝ること候まじとは、など申し給はぬぞ」と申しければ、「わが宗なれば、さこそ申さまほしかりつれども、まさしく、稱名を追福に修して巨益(こやく)あるべしと説ける經文を見及ばねば、何に見えたるぞと、重ねて問はせ給はば、いかゞ申さむと思ひて、本經のたしかなるにつきて、この眞言・陀羅尼をば申しつるなり」とぞ申されける。


検:第222段 第222段 竹谷乗願房、東二条院へ参られたりけるに