徒然草 現代語訳 吉田兼好

徒然草を現代語訳したり考えたりしてみる

吉田兼好の徒然草を現代の言葉で書いたり、読んで思ったことを書いています。誤訳や解釈の間違いがありましたらぜひご指摘ください。(序段---冒頭文から順番に書いています。検索窓に、第〇〇段、またはキーワードを入力していただけばブログ内検索していただけると思います)

第百九十六段 東大寺の御神輿が東寺の若宮八幡宮からお戻りになる時

東大寺の御神輿が東寺の若宮八幡宮からお戻りになる時、源氏の公卿たちが参上してて、この殿(久我通基)が近衛府の大将だったんだけど、護衛の者に道をあけるように指示をなさってたのを、土御門相国(土御門定実)が、「神社の前で警蹕(けいひつ=声をかけて人払いをして道をあけさせること)はいかがななものか」と申されたんで、「近衛府随身(SP)のふるまいについては、武官の家の者が知っていることでございます」とだけお答えになったのね

そして、後におっしゃったのは、「あの相国は『北山抄』だけを見て、『西宮の説』を知らなかったんだね。神に従う悪鬼や悪神のたぐいを恐れるがために、神社では特に前もって人払いすべきっていうセオリーがあるんだよ」ということだったよ


----------訳者の戯言---------

この段も前段で出てきた久我内大臣=久我通基のお話です。
ただし若い頃の、ですね。
前段の最後の文を受けて、書かれているとも言えます。
同じ段で続けて書いてもよかったんじゃないかとも思います、私は。

ちなみに久我通基が右近衛大将だったのは1288年頃まで。
土御門定実太政大臣に任じられたのは1301年ですから、兼好の書いてるとおりなら、通基が後に語ったのは10年以上も後ということになりますね。
ちなみに「相国」というのは太政大臣唐名だそうです。

ですから、兼好が、通基の言葉として(直接話法で)「あの相国は~」と言った風に書いたのは、おそらく勘違いでしょう。
1301年以降ともなると久我通基も60歳を超えてますし、あまりにも大人げないです。
この段については、彼らがもっと若かった頃のことだと理解したほうがいいでしょうね。
土御門定実太政大臣(相国)になる遥か以前のこと、と見るのが正しいと思います。

さて、久我通基と土御門定実ですが、どちらも村上源氏の流れをくむ家の出。同じ一門ではありますが、その中での覇権争い的なものもあったようです。
久我家は村上源氏嫡流でしたが、他の家も台頭してきた時期だったようですね。

太政大臣は、天皇や院を別格とすれば、為政者としてはトップ=ナンバー1です。
前にも書きましたが、内大臣はナンバー4くらいですね。
だから、最終職歴(官位)についてだけ言うと、土御門定実のほうが上。
しかし通基が近衛大将だった頃はたぶん通基が上位だったのだと思います。年齢もほぼ同じくらいだったようで、同門のライバル的な間柄だったかもしれません。

「北山抄」は藤原公任が書いた故実の書で、「西宮の説」は源高明による、やはり故実の書。
どっちも公事や儀式に関することが書かれているんですね。
ただ「西宮の説」には警蹕についての記述はないらしい。

さて、関連ですが、第百二十八段で犬の足を切ったという虚言によって、大将への昇進を妨げられ、以後昇進がままならなかったのが、この段の土御門定実の息子、雅房大納言(土御門雅房)でした。かわいそすぎる人です。

あと、第百四十五段に(御)随身のことが書かれていましたね。
随身」は所謂、天皇をはじめとする貴人、要人のセキュリティポリス(SP)ですね。
警護のエキスパート、エリートと言っていいでしょう。

兼好法師、久我通基については、的確な判断や教養、品格のようなものを結構評価していて、親愛の情のようなものを持っているように私は思います。


【原文】

東大寺の神輿、東寺の若宮より歸座のとき、源氏の公卿參られけるに、この殿、大將にて、先を追はれけるを、土御門相國、「社頭にて警蹕いかゞはべるべからん」と申されければ、「隨身のふるまひは、兵仗の家が知る事に候。」とばかり答へ給ひけり。

さて、後に仰せられけるは、「この相國、『北山抄』を見て、西宮の説をこそ知られざりけれ。眷属の惡鬼・惡神を恐るゝゆゑに、神社にて、殊に先を追ふべき理あり」とぞ仰せられける。


検:第196段 第196段 東大寺の神輿、東寺の若宮より帰座の時