徒然草 現代語訳 吉田兼好

徒然草を現代語訳したり考えたりしてみる

吉田兼好の徒然草を現代の言葉で書いたり、読んで思ったことを書いています。誤訳や解釈の間違いがありましたらぜひご指摘ください。(序段---冒頭文から順番に書いています。検索窓に、第〇〇段、またはキーワードを入力していただけばブログ内検索していただけると思います)

第百九十四段 達人が人を見る目は、少しも間違うことはない

達人が人を見る目は、少しも間違うことはないでしょう

たとえば、誰かが世間に嘘を語って人を騙そうとした時、次のような人がいますね
①素直にホントのことだと信じて、言うままに騙される人
②あまりにも深く信じ込んで、さらにあれこれ嘘を自分の感じたまま盛っちゃう人
③何とも思わないで、注意さえしない人
④「少しおかしいな」と思って、信じるでもなく、信じないでもなく、考え込んでいる人
⑤「本当っぽくは思えないけど、人の言ってることなら、そういうこともあるだろう」って、それ以上追及するのを止める人
⑥あれこれと思いめぐらせて、理解した風に賢そうな感じで頷いて微笑んでるけど、全然わかってない人
⑦推理した結果、「ああ、そうだよなー」と思いながらも「やっぱ違うんじゃね?」と怪しむ人
⑧「違うって感じでもなかったんじゃない?」って、手を叩いて笑う人
⑨嘘だってことはわかってるけど、「わかってる」とは言わず、知らなくもないこと(つまりたしかに知ってること!)について、とやかくは言わず、知らない人と同じようにやり過ごす人
⑩その嘘の意図を最初からわかってて、少しも否定はせず、嘘を言い出した人と同じスタンスで、協力までする人

愚か者たちの戯れ事でさえ、物の道理がわかってる人の前では、こうしたさまざまな反応が、言葉からも表情からも、露見してしまうに違いない
ましてや、道理に明るい人が迷ってる我々を見るってことは、手の平の上の物を見るようなもんさ
ただし、このような推量で、仏法までを同じように言うべきではありませんね


----------訳者の戯言---------

最後の一文が謎なので、少し調べてみました。

仏教においては、嘘を肯定する話を用いて道理を説くことがあるようです。
所謂「嘘も方便」というやつですね。
そういうのがあるらしい、ということはなんとなく私も知ってましたが…。
「仏法」ってそのことだったのか。

即ち、仏教の道理を会得したり、人を救済するための「嘘」は、別次元のもので、こうした「仏法」で言うところの「嘘も方便」の「嘘」までも、この段で語ってきたような愚者の虚言なんかと同列に扱ってはいかんよ、ということでしたのね。
そんな感じかなーと思ってはいましたが、あまりにも思っていたとおりなので、新鮮ですね、逆に。

嘘(らしきこと)を言われた場合、それに対するリアクションを人間行動学あるいは心理学的に類型化したのが、この段です。
むしろ主題はこっちですね。達人の眼力とか嘘も方便の話よりも。
しかし、まあこんだけ細かく書いてるんですから、たしかにどれかには当てはまりそうですね。


【原文】

達人の人を見る眼は、少しも誤る處あるべからず。

たとへば、ある人の、世に虚言を構へ出して、人をはかることあらんに、素直に眞と思ひて、いふ儘にはからるゝ人あり。あまりに深く信をおこして、なほ煩はしく虚言を心得添ふる人あり。また何としも思はで、心をつけぬ人あり。又いさゝか覚束なく覚えて、頼むにもあらず、頼まずもあらで、案じ居たる人あり。又まことしくは覺えねども、人のいふことなれば、さもあらんとて止みぬる人もあり。又さまざまに推し心得たるよしして、賢げに打ちうなづき、ほゝゑみて居たれど、つやつや知らぬ人あり。また推し出して、「あはれ、さるめり」と思ひながら、なほ誤りもこそあれと怪しむ人あり。また、異なるやうも無かりけりと、手を打ちて笑ふ人あり。また、心得たれども、知れりともいはず、覚束なかなからぬは、とかくの事なく、知らぬ人と同じやうにて過ぐる人あり。また、この虚言の本意を、初めより心得て、すこしも欺かず、構へ出だしたる人とおなじ心になりて、力をあはする人あり。

愚者の中の戯だに、知りたる人の前にては、このさまざまの得たる所、詞にても顔にても、かくれなく知られぬべし。まして、あきらかならん人の、惑へるわれらを見んこと、掌の上のものを見んがごとし。たゞし、かやうのおしはかりにて、佛法までをなずらへ言ふべきにはあらず。


検:第194段 第194段 達人の人を見る眼は