徒然草 現代語訳 吉田兼好

徒然草を現代語訳したり考えたりしてみる

吉田兼好の徒然草を現代の言葉で書いたり、読んで思ったことを書いています。誤訳や解釈の間違いがありましたらぜひご指摘ください。(序段---冒頭文から順番に書いています。検索窓に、第〇〇段、またはキーワードを入力していただけばブログ内検索していただけると思います)

第百六十九段 何ごとかの『式』ということは

「何ごとかの『式』ということは、後嵯峨天皇が在位されてた時代までは言わなかったんだけど、最近になって言うようになった言葉である」とある人が申しましたけど、建礼門院右京大夫が、後鳥羽院のご即位後、宮中に再就職したことを言うのに「世のしきも変りたる事は無きにも(世の中のシステムが変わっている事もないのに)」と書いてるのだ


----------訳者の戯言---------

そもそもなのですが、どうやら兼好法師、勘違いのようです。

建礼門院右京大夫集」百三十八段にたしかに「御しつらひも、世のけしきも、変りたることなきに、ただわが心の内ばかり、砕けまさる悲しさ」と書かれている部分があります。
ただし書かれているのは「しき」ではなくて「けしき」です。

たぶん兼好法師は、「システム、スタイル、ルールといった意味合いの『式』というワードは最近のもんだよ」と言ってる人がいたけど、それって平安末期の頃、すでに建礼門院右京大夫が書いてるからね!と言いたかったんですね。
違うけどね。

原典の「御しつらひも~」の部分の意味は「殿中の装飾も、あたりの様子が変わったという事もないけれど、ただ私の心の中だけは、ますます粉々に砕けて…そんな悲しさなのです」という感じです。
前後にもいろいろ書いてますが、次の歌の長めの詞書として書かれています。

今はただ しひて忘るる いにしへを 思ひ出でよと 澄める月影

(訳)今はただ、無理に忘れようとしてる昔の事を、思い出せと(言うかのように)澄みきった月明かりであることよ

余談ですが、名前から何となくわかりますけど、建礼門院右京大夫(けんれいもんいんうきょうのだいぶ)というのは建礼門院平徳子平清盛の娘、安徳天皇の母)に仕えていた女性だそうです。
はっきりとした生年はわからないんですが、1172年に15~18歳で建礼門院に出仕しているようですね。

いわば宮中に仕える、賢いキャリアウーマン、というイメージです。
建礼門院右京大夫集」は彼女の私家集で、主に恋人の平資盛への思いを中心に描かれているようです。
読んでいないので詳しくはわからないんですが。
平資盛というのは、かの平清盛の孫にあたる人で、建礼門院右京大夫とはほぼ同年齢。
当時は平家台頭の時期でしたから、ピカピカの王子様で、しかも和歌なども優れてたらしい。
容姿も端麗であったそうです。

建礼門院右京大夫集」にもその時の恋愛のときめきの様子、恋愛模様、そして終わりまでが本人の記述によって描かれているそうです。

さて平資盛ですが、壇ノ浦の戦いで戦死しています。
これは日本史でも習いましたね。
恋人の死後、建礼門院右京大夫は勤めをやめ、供養の旅に出たのだそうです。
純愛ですね。
けど、恋人は政治的に追われたりとかはしなかったんでしょうかね。しなかったんですね。

しかし面白いのは、それだけではないんです。

彼女には途中でもう一人恋人が現れます。

藤原隆信という人で、かなり年上の貴族で、和歌や絵画でも有名なアーチストであり役人でもあったプレイボーイです。
当時は「色好み」と言われました。
光源氏とか、実在の人物では伊勢物語在原業平なんかもそう言われてますね。
下品に言うと「ヤリ〇〇」ということになります。

建礼門院右京大夫、ずいぶんと藤原隆信に言い寄られ、最初はかなり拒んでたようですが、断り切れず付き合ってしまいます。

藤原隆信は1142年生まれで1175年33歳の時に子ども(たぶん次男です)も誕生しています。
ですから、まあ、今なら妻子ある年上プレイボーイとの不倫ですわね。
しかも自分にも彼氏いるし。

しかし。

当時は一夫多妻ですからね。
全然不倫ではありません。
そして、恋人の平資盛にも正妻がおりました。
ですから、恋人と言われていますけど、建礼門院右京大夫は、歴史的には平資盛の妾ということになっています。
恋人=妾=愛人=側室、と、どれも似たようなものってことでしょうかね。

つまり、男性側はもちろん、女性の側も、そういう恋愛沙汰については、今の倫理観で判断するのはよくない、というか当たってないと思うんです。二股、三股とかも、今みたいに悪いイメージのものだったのか、それさえ疑問です。
ただ、そのへんの詳細は、本当に申し訳ないんですが、詳しい方に聞いていただくか、調べていただくといいと思います。
すみません。

ところで、平家は壇ノ浦で敗れたけど、その恋人が捕らえらえたり、追われたりということはなかったのかな、と先に書きましたが、考えてみると、正室は仕方ないとしても、失脚した人の恋人や側室なんかをことごとく処罰なんかしてたら、ものすごい数の女性にペナルティを与えざるを得なくなってしまう。ですから、なかなかそこまでできない、という事情はあったかもしれませんね。

いずれにしても、藤原隆信も恋人であったと。
年齢も一回り以上年上、自信満々なおじさんとの大人の恋愛にハマるのですね。

しかし藤原隆信、さすが色好み。
建礼門院右京大夫をモノにした途端に冷めちゃったらしい。
今も昔もいるっていうことです、こういう人。

で、ようやく本題に戻ります。
平資盛が戦死し、供養の旅に出た建礼門院右京大夫ですが、年月を経て、おそらくそのキャリアを生かして再就職したのでしょう。乞われたんでしょうね。
40歳前くらいだったようです。
その時の話が、この段にでてきた「建礼門院右京大夫集」の一節、とのことです。

と、まーそういうわけで、昔もいろいろあったもんやなあ、と思いました。
今回はずいぶん本題から外れまくりです。

長い。


【原文】

「何事の式といふ事は、後嵯峨の御代迄はいはざりけるを、近き程よりいふ詞なり」と、人の申し侍りしに、建禮門院の右京大夫後鳥羽院の御位の後、また内裏住みしたることをいふに、「世の式も變りたる事はなきにも」と書きたり。


検:第169段 第169段 何事の式といふ事は