徒然草 現代語訳 吉田兼好

徒然草を現代語訳したり考えたりしてみる

吉田兼好の徒然草を現代の言葉で書いたり、読んで思ったことを書いています。誤訳や解釈の間違いがありましたらぜひご指摘ください。(序段---冒頭文から順番に書いています。検索窓に、第〇〇段、またはキーワードを入力していただけばブログ内検索していただけると思います)

第百五十七段 筆を持てば自然と文章を書くし

筆を持てば自然と文章を書くし、楽器を持てば音を鳴らそうと思う
盃を手に取ればお酒が飲みたくなり、サイコロを持つと博打がしたくなる
心は必ず物事に触れて動き出すんだ
だから仮にでも良くない遊びをしてはいけません

ちょこっと経典のワンセンテンスを見たら、何となく前後の経文もわかるし
一瞬で長年やってきた間違いを改めることもある
仮に今、この本を開かなかったら、この事がわかっただろうか!?
これこそが、イコール「触れること」のメリットなんだよね

気分は全然乗らなくても、仏前に座って数珠を持って、経文を手に取れば、怠けてる間でも善行は自然と行なわれて、乱れた心でいてもいざ縄床(座禅を組む椅子)に座れば、気付かないうちに心が安定してきて動揺することのない心境に達するんだ
事(現象)と理(真理)は、元々二つ、つまり別々の違ったもの、というわけじゃない
(一つのものなんだよ)
外に現れた事象がもし道に背くものでなければ、心の内で必ず悟りが開かれていく
(だから、『形式でやってるだけじゃん』なんて)
無闇に不平を言うもんじゃない
敬い、これを尊ぶべきなんだ


----------訳者の戯言---------

学生はまず、教科書を開くこと!
社会人はまず、仕事着に着替えるところから。
とりあえず出勤すること!
パソコンの電源入れて、立ち上げる!
仕事してるフリをしてたら、いつの間にかほんとにやってたりして。

なーんてな。


【原文】

筆をとれば物書かれ、樂器をとれば音をたてんと思ふ。杯をとれば酒を思ひ、賽をとれば攤うたむ事を思ふ。心は必ず事に觸れて來る。仮りにも不善のたはぶれをなすべからず。

あからさまに聖教の一句を見れば、何となく前後の文も見ゆ。卒爾にして多年の非を改むる事もあり。假に今この文をひろげざらましかば、この事を知らんや。これすなはち觸るゝ所の益なり。心更に起らずとも、佛前にありて數珠を取り、經を取らば、怠るうちにも、善業おのづから修せられ、散亂の心ながらも繩床に坐せば、おぼえずして禪定なるべし。

事・理もとより二つならず、外相若し背かざれば、内證かならず熟す。強ひて不信といふべからず。仰ぎてこれを尊むべし。


検:第157段 第157段 筆をとれば物書かれ