第百五十四段 東寺の門で雨宿りなさってた時
この人(日野資朝)が、東寺の門で雨宿りなさってた時、身体に障がいのある者たちが集まってたんだけど、手も足もねじれ歪んで、反り返って、みんなが不具で、異様なのを見て、様々に比類なき変わり者である、全くもって愛すべき存在だと思って、見守ってられたんだけど、そのうち、すぐにその好意が失せちゃって、今度は醜く、不快に思えてきたもんだから、「ただ単に素直で珍しくもないものにはやっぱり敵わないよな」と思って、家に帰って後、このところ、植木を好んで、異様に折れ曲がったのを買い求めて観賞してたのは、あの障がいのある者たちを愛するようなもんだって、つまらなく思えたので、鉢植えの木を、全部堀って捨てられたんだ
そうあるべきことだよね
----------訳者の戯言---------
「かたは(かたわ)」については、当時と現代の認識も状況も大きく違いますから、なかなか論評はむずかしいんです。
昔は社会保障のシステムなんかも整っていなかったでしょうしね。
差別意識については、第八十七段で私自身も言及していますので、それに委ねるとして、今回救いなのは、日野資朝の「シンプルに興味のあるものには惹かれ、不快に感じたら嫌う」というストレートさです。
もちろん潜在的な差別意識はあるのかもしれませんが、明確な悪意、邪(よこしま)な心は、私にはあまり感じられません。
言葉を換えれば「変わったもの」を嫌い、「当たり前なもの」を好む、という単純な感性です。
それが盆栽に対する行動の件で、さらに明らかになってきます。
人にも植物に対しても分け隔てがない、という点においては、ユニバーサル(普遍的)な視野の広さを無意識ながらに持っている感じです。
その率直さはたしかに好ましいですね。
それが、数百年前の人のことを当時の人が伝聞で書いたものだったとはいえ、人格を十分に読み取れる。
兼好のその筆致も、なかなかのものです。
兼好が3回シリーズで書いたということは、日野資朝という人物には、かなり思い入れがあるとも言えるでしょう。
いろいろな意味で、この段、そしてこの三部作は考えさせられる内容でした。
こういうのこそ、今、教科書に載せるべきかもしれませんね。
【原文】
この人、東寺の門に雨宿りせられたりけるに、かたは者ども集り居たるが、手も足もねぢゆがみ、うち反りて、いづくも不具に異樣なるを見て、「とりどりに類なきくせ者なり、最も愛するに足れり」と思ひて、まもり給ひけるほどに、やがてその興つきて、見にくく、いぶせく覺えければ、「たゞすなほに珍しからぬものには如かず」と思ひて、歸りて後、「この間植木を好みて、異樣に曲折あるを求めて目を喜ばしめつるは、かのかたは者を愛するなりけり」と、興なく覺えければ、鉢に栽ゑられける木ども、みなほり棄てられにけり。
さもありぬべきことなり。
検:第154段 第154段 この人、東寺の門に雨宿りせられたりけるに