徒然草 現代語訳 吉田兼好

徒然草を現代語訳したり考えたりしてみる

吉田兼好の徒然草を現代の言葉で書いたり、読んで思ったことを書いています。誤訳や解釈の間違いがありましたらぜひご指摘ください。(序段---冒頭文から順番に書いています。検索窓に、第〇〇段、またはキーワードを入力していただけばブログ内検索していただけると思います)

第百五十段 芸を身につけようとする人が

芸を身につけようとする人が「上手くないうちは、うかつに人に知られないようにしよう。内々でよく練習して上手くなってから人前で披露したら、すごく素敵だろうから」と、よく言うようだけど、こんな風に言う人は、一芸も習得できないよ
まだ全然できてない頃から上手い人の中に交じって、馬鹿にされて笑われても恥ずかしがらず、平然とスルーして練習する人だったら、素質なんか無くても、満足せず、おろそかにもしないで年月をかけて励んでると、才能があっても練習しない人よりは、最終的には名手の域に到達して、人格的にも優れ、人にも認められて、比べ物もないほどの名声を得るってことになるんだ

世界的な名手でも、最初は下手っていう評判もあったり、どうしようもない欠点もあったんだよ

しかし、その人がその道のルールを守って、これを大切にしていい加減なことをしなかったからこそ、世間から認められるマエストロ的な存在になって、多くの人々の師となったこと、それはどんなジャンルでも変わることはない


----------訳者の戯言---------

言ってることはわかるんですが、兼好、以前、違うこと言ってませんでした?

第百三十四段で「不堪の芸をもちて堪能の座に連な」るのは「人の与ふる恥にあらず、貪る心に引かれて、自ら身を恥しむるなり」って書いてましたよね、ね。
つまり、未熟者が上手な人に交じってやるのは、自分自身の欲深い心によるものなんだ、って否定的に書いてました。
ちゃんと証拠も残ってるし忘れたとは言わせんぞ。

というわけなんだけど、兼好に代わって言い訳すれば、同じように下手くそが上手い人に交じってやる場合にも、「心」が問題なんだってことね。
その場限り、邪な気持ちだとダメだし、この段のように素質がないけど年月をかけてコツコツ努力するならいい、ってことなんですよ。ね、たぶん。


【原文】

能をつかんとする人、「よくせざらむ程は、なまじひに人に知られじ。内々よく習ひ得てさし出でたらむこそ、いと心にくからめ」と常にいふめれど、かくいふ人、一藝もならひ得ることなし。いまだ堅固かたほなるより、上手の中に交りて、譏り笑はるゝにも恥ぢず、つれなくて過ぎてたしなむ人、天性その骨なけれども、道になづまず、妄りにせずして年を送れば、堪能の嗜まざるよりは、終に上手の位にいたり、徳たけ人、に許されて、ならびなき名をうることなり。

天下の物の上手といへども、はじめは不堪のきこえもあり、無下の瑕瑾もありき。されども、その人、道の掟正しく、これを重くして放埒せざれば、世の博士にて、萬人の師となること、諸道かはるべからず。


検:第150段 第150段 能をつかんとする人