徒然草 現代語訳 吉田兼好

徒然草を現代語訳したり考えたりしてみる

吉田兼好の徒然草を現代の言葉で書いたり、読んで思ったことを書いています。誤訳や解釈の間違いがありましたらぜひご指摘ください。(序段---冒頭文から順番に書いています。検索窓に、第〇〇段、またはキーワードを入力していただけばブログ内検索していただけると思います)

第百二十一段 養い飼うものとしては、馬と牛

養い飼うものとしては、馬と牛だよね
つないで苦しめるのは痛ましくて嫌だけど、無くてはならないものなので、仕方ないです
犬は家を守り防ぐ任務が、人より勝ってるから、必ず飼うべきですよ
けど、どの家にでもいるから、わざわざ飼わなくてもいいでしょうね

その他の鳥や獣は、すべて飼う必要ないものなんだよな
走る獣は檻に閉じ込められ、鎖につながれ、飛ぶ鳥は翼を切り、籠に入れられてしまって、
雲を恋しがり、野山を思う愁いが、やむ時がありませんね
そんな思いを、自分自身にあてはめて耐えられないなら、心ある人は、これを楽しめるだろうか(楽しめないよね)

生き物を苦しめて目を喜ばせるのは、古代の暴君の桀や紂の心持ちとおんなじだよ
王子猷が鳥を愛したのは、林に遊ぶのを見て、そぞろ歩きの友としたんだよね
捕まえて苦しめるためではありません

総じて「珍しい鳥、変った獣は、国内で育てない」と、本にも書いてあるとおりだよね


----------訳者の戯言---------

犬は飼うべきなのか、飼わなくていいのか。
どっちやねん!
それと、当時、猫はどうだったのかも気になりますね。
猫、完全無視。

桀(けつ)、紂(ちゅう)というのは、いずれも古代中国の暴虐非道な帝王なのだそうです。

で、王子猷って誰?って話ですが、ま、中国の人らしい。本名は王徽之といって王羲之という高名な書家の子どもであり、この人自身も書家、そして文人であったらしいです。生活のための仕事なんかせず、花鳥風月を愛した人のようですね。
子猷っていうのは字(あざな)です。

で、字(あざな)って何よ?

中国では別名っていうか、あだ名っていうか、普通はこっちが使われるんですが、親とか主君とかよっぽど目上の人だけが諱(本名の方の名前)を使うのが常識だったらしいですね。
自分を名乗るときも諱(名)を言うらしい。
それ以外の人が本名で呼ぶのは無礼なことだった、とウィキペディアに書いてあります。

ということは、「偉さ」からすると、諱<字 ということになりますね。

例えば「諸葛-亮」は「諸葛」が姓、「亮」が諱(名)であり、字を「孔明」といいます。
ただ、主君の劉備は本来は「亮くん」って呼ぶべきなんですが、「孔明くん」って呼んでいたりもします。
この場合は、逆に劉備諸葛亮に並々ならぬ敬意を持っているということだそうです。

無礼=ぞんざいである=親近感
敬意をもってる=距離が遠い

ということが言えます。
日本語における敬語の使い方もそうなのですが、微妙な「距離感」が現れるんでしょうね。


【原文】

養ひ飼ふものには馬・牛。繋ぎ苦しむるこそ痛ましけれど、なくて叶はぬ物なれば、如何はせむ。犬は、守り防ぐつとめ、人にも優りたれば、必ずあるべし。されど、家毎にあるものなれば、ことさらに求め飼はずともありなん。

その外の鳥・獸、すべて用なきものなり。走る獸は檻にこめ、鎖をさされ、飛ぶ鳥は翼を切り、籠に入れられて、雲を戀ひ、野山を思ふ愁へ、やむ時なし。その思ひ我が身にあたりて忍び難くは、心あらん人、これを樂しまんや。生を苦しめて目を喜ばしむるは、桀・紂が心なり。王子猷が鳥を愛せし、林に樂しぶを見て逍遥の友としき。捕へ苦しめたるにあらず。

凡そ、「珍しき鳥、怪しき獸、國に養はず」とこそ文にも侍るなれ。


検:第121段 第121段 養ひ飼ふものには馬・牛