徒然草 現代語訳 吉田兼好

徒然草を現代語訳したり考えたりしてみる

吉田兼好の徒然草を現代の言葉で書いたり、読んで思ったことを書いています。誤訳や解釈の間違いがありましたらぜひご指摘ください。(序段---冒頭文から順番に書いています。検索窓に、第〇〇段、またはキーワードを入力していただけばブログ内検索していただけると思います)

第七十五段 やることが無くてヒマなのが苦痛

やることが無くてヒマなのが苦痛っていう人は、どういう気持ちなんだろう
心が惑わされるものも無くて、ただ一人でいることこそ、ほんとはいいことなんだけどね
世間に合わせてばかりいたら、心が俗世のホコリにまみれて惑わされやすくなっちゃって、人と交わると自分の言葉を相手がどう受け取るかばっかり気になって、ありのままの正直な心ではいられなくなるんですよ

人と戯れたり、相手と争ったり、恨んでみたり、喜んでみたり
そんな心の動きって、安定することが無いんですよね
やたらあれこれ考えて、損得勘定ばっかりするのです

迷いながら、酔っぱらってるんですよ
酔っぱらいながら、夢を見てるんですよ
走り回って忙しくしてるけど、ぼうっとして肝心なことを忘れてるって、誰でもみんなこんなものなんだよね

まだ真理に至る道を知らなくても、俗世との縁を離れて身を静かにし、物事へ関わりを避けて心を安らかにするのが、せめて一時だけでも楽しむことなんだ、って言えるでしょうに
「生活、人事、技能、学問のあらゆる縁を断ち切りなさい」と「摩訶止観」にも書いてあります


----------訳者の戯言---------

「摩訶止観」というのは、「仏教の論書の1つで、止観(止は三昧、観は智慧。仏教瞑想はこの2つから成る。上座部仏教でいうサマータとヴィパッサナー)についての解説書。10巻。594年に中国荊州(現在の湖北省)玉泉寺で天台智顗によって講義され、弟子の章安灌頂によってまとめられた。天台三大部の1つ」
ウィキペディアに書かれています。

なんか難しいな!


【原文】

つれづれわぶる人は、いかなる心ならむ。紛るゝ方なく、唯一人あるのみこそよけれ。

世に從へば、心外の塵にうばはれて惑ひ易く、人に交はれば、言葉よそのききに隨ひて、さながら心にあらず。人に戲れ、物に爭ひ、一度は恨み、一度は喜ぶ。そのこと定れることなし。分別妄りに起りて、得失やむ時なし。惑ひの上に醉へり、醉の中に夢をなす。走りていそがはしく、ほれて忘れたること、人皆かくのごとし。

いまだ誠の道を知らずとも、縁を離れて身を閑にし、事に與らずして心を安くせんこそ、暫く樂しぶともいひつべけれ。「生活・人事・技能・學問等の諸縁を止めよ」とこそ、摩訶止觀にも侍れ。

 

検:第75段 第75段 つれづれわぶる人は