徒然草 現代語訳 吉田兼好

徒然草を現代語訳したり考えたりしてみる

吉田兼好の徒然草を現代の言葉で書いたり、読んで思ったことを書いています。誤訳や解釈の間違いがありましたらぜひご指摘ください。(序段---冒頭文から順番に書いています。検索窓に、第〇〇段、またはキーワードを入力していただけばブログ内検索していただけると思います)

第五十二段 石清水八幡宮を参拝

仁和寺にいる法師が、年を取るまで石清水八幡宮を参拝したことがなかったので、これではいかんと、ある時思い立って、ただ一人歩いて参詣したんです
極楽寺、高良明神などを拝んで、これで終わりと思って帰ってきましたの

で、知り合いに会って、「長年思っていたことを実現しましたよ。聞いてた以上に、すごい尊かったよ。それにしても、お参りする人がみんな山に登ってるっていうのは、何ごとがあるんだろう。興味はあったけど、神にお参りするのがまず本来の目的と思って、山までは見なかったんですよねー」と言ったのです

ちょっとしたことにでも、案内人はいて欲しいですよね


----------訳者の戯言----------

オチ、なんとなく想像はつきますが…。

そう!そのとおり。
実は山の上に本殿があるのだ。山の麓にある極楽寺というのは「神宮寺」と言って、ま、難しい言い方をすれば日本独特の神仏習合の考えに基づいており、神社の付属施設として寺院があるなんていうのは普通なのですね。また、高良明神は摂社です。摂社っていうのは大きな神社の境内とか近くにある小さな神社のことですね。支店みたいなものですか。

ちょっと小馬鹿にした感じになっています。兼好、いかんな!


【原文】

仁和寺に、ある法師、年よるまで石清水を拜まざりければ、心憂く覺えて、ある時思ひたちて、たゞ一人徒歩より詣でけり。極樂寺・高良などを拜みて、かばかりと心得て歸りにけり。さて傍の人に逢ひて、「年ごろ思ひつる事果たし侍りぬ。聞きしにも過ぎて尊くこそおはしけれ。そも參りたる人ごとに山へのぼりしは、何事かありけむ、ゆかしかりしかど、神へまゐるこそ本意なれと思ひて、山までは見ず。」とぞ言ひける。

すこしの事にも先達はあらまほしきことなり。

 

検:第52段 第52段 仁和寺にある法師、年よるまで、石清水を拝まざりければ 仁和寺にある法師年よるまで石清水を拝まざりければ