徒然草 現代語訳 吉田兼好

徒然草を現代語訳したり考えたりしてみる

吉田兼好の徒然草を現代の言葉で書いたり、読んで思ったことを書いています。誤訳や解釈の間違いがありましたらぜひご指摘ください。(序段---冒頭文から順番に書いています。検索窓に、第〇〇段、またはキーワードを入力していただけばブログ内検索していただけると思います)

第四十九段 年老いてから初めて仏道の修行を

老いてから初めて仏道の修行をしようなどと待っててはいけません
古いお墓の多くは若い人のお墓なんですよ
思いがけず病気になって、たちまちこの世を去ろうかという時になって、はじめて過去の誤りを思い知るものなんだよね
で、この誤りっていうのは他でもなく、急いでやるべきことをゆっくりやり、ゆっくりやるべきことを急いでやってしまった、過去に対する悔しさなわけなんです
そうなって後から悔やんでも、どうにもならないんだけどね

人は、いつまでも今のままでなく、いつ死が訪れるかもしれない、ということをしっかりと心に留めて、これをちょっとの間も忘れず生きなければいけません
そうしてさえいれば、なんでこの世の濁りが薄まらないことになるかな? いやいや清くなるし! 仏道にも真面目に精進するでしょうしね!

「昔いた聖人は、人が訪ねて来てお互いの用事を言い合ってた時、『今、至急でやらんとあかんことがあって、すぐ目の前に迫ってるんや』と、急にこう答えて、耳を塞いで念仏を唱えて、ついにそのまんま往生を遂げたのです」と、禅林寺の高僧が書いた「往生十因」にも載ってますよ

また、心戒という聖人は、あまりにもこの世がはかないと思って、静かに座っている間さえなく、いつもうずくまってばかりいたらしいんだよね

 

----------訳者の戯言----------

だいたい、古語っていうのは、反語表現が多いでしょ。
「どうして〇〇〇することがあるだろう? いや、無い」とか
「どうして〇〇が〇〇〇でないことがあるだろう。いや、そのとおりだ」
みたいな。まどろっこしいな。はっきり言えよ!
とは思うのですが、ま、こういう修辞法も日本語のいいところですか?

さっと読む分にはまあ、いいとしても、訳してるとやっぱりめんどう臭い。
現代に生まれてよかったなとほんと、思います。

本題ですが、世は無常であって、これをいつも肝に命じて日々仏道に勤めましょうよ、ってことですか?
ちょっと兼好法師も、まどろっこしいんですよね、今回。


【原文】

老來りて、始めて道を行ぜんと待つ事勿れ。古き墳、多くはこれ少年の人なり。はからざるに病をうけて、忽ちにこの世を去らんとする時にこそ、はじめて過ぎぬる方のあやまれる事は知らるなれ。誤りといふは、他の事にあらず、速かにすべき事を緩くし、緩くすべきことを急ぎて、過ぎにしことの悔しきなり。その時悔ゆとも、甲斐あらんや。

人はたゞ、無常の身に迫りぬる事を心にひしとかけて、束の間も忘るまじきなり。さらば、などか、此の世の濁りもうすく、佛道を勤むる心もまめやかならざらん。

「昔ありける聖は、人来たりて自他の要事をいふとき、答へて云はく、『今、火急の事ありて、既に朝夕にせまれり』とて、耳をふたぎて念佛して、終に往生を遂げけり」と、禪林の十因に侍り。心戒といひける聖は、餘りにこの世のかりそめなることを思ひて、靜かについゐける事だになく、常はうづくまりてのみぞありける。

 

検:第49段 第49段 老来りて、始めて道を行ぜんと待つことなかれ 老来たりて始めて道を行ぜんと