徒然草 現代語訳 吉田兼好

徒然草を現代語訳したり考えたりしてみる

吉田兼好の徒然草を現代の言葉で書いたり、読んで思ったことを書いています。誤訳や解釈の間違いがありましたらぜひご指摘ください。(序段---冒頭文から順番に書いています。検索窓に、第〇〇段、またはキーワードを入力していただけばブログ内検索していただけると思います)

第十段 住んでるとこ見たら

家がその人に似合ってて、こんな感じだったらいいっていうのは、ま、住宅なんていうのはこの世の仮の宿くらいなもんだとは思うけど、それでもやっぱり興味深いです

すてきな人が、のどかに暮らしてるところは、窓から見える月の色もすごくしみじみとしたいい感じに見えるんですよ
今っぽい豪華な感じではなくて、周りの木立ちが何となく年季が入ってて、自然な感じの庭の草がかえって気がきいてて、縁側とか垣根の配置もかっこよく、何気に置いてある道具なんかもアンティーク感があって癒されるし、そういうのってほんとイカしてる

でもね、一流職人たちがていねいに磨き上げた、輸入物とか、日本製でもレアな尋常じゃないレベルの調度品をずらっと並べて、庭の植え込みなんかも立派に人工的に作り上げちゃってるのは、見てるのもつらいし、すごくわびしいですよ

そんな感じのまんまで、いつまでも住んでられる? 無理でしょ
でなくても、こんなのすぐ火事で煙になってしまうと意味ないじゃん、とか、見てて思っちゃうんですよね
だいたいは、住んでるとこ見たら、その人の生き方とかセンスがわかりますよ

後徳大寺左大臣がお屋敷に鳶が飛んで来ないように縄を張ってたのを西行が見て「鳶がいたらなんでダメなの? この人の度量ってこの程度なの? 小っちゃいやつやな」と言って、それ以後、行かなくなったと聞いてたんだけど

綾小路宮の小坂殿にもいつだったか縄がひかれてたんで、西行の時のことを思い出したんですけどね、なんと!「カラスがいっぱい来て池の蛙を取るもんだから、宮さまがそれを御覧になって悲しまれたからなんですよ」とそこの人が言ったもんだから、何て素敵なんだろう!と思ったわけでして

徳大寺さんのところも何か理由があったのかもね

 

【原文】

家居のつきづきしく、あらまほしきこそ、假の宿りとは思へど、興あるものなれ。

よき人の、長閑に住みなしたる所は、さし入りたる月の色も、一際しみじみと見ゆるぞかし。今めかしくきらゝかならねど、木立ちものふりて、わざとならぬ庭の草も心ある樣に、簀子・透垣のたよりをかしく、うちある調度も昔覚えてやすらかなるこそ、心にくしと見ゆれ。

多くの工の心を盡して磨きたて、唐の、大和の、珍しく、えならぬ調度ども並べおき、前栽の草木まで、心のまゝならず作りなせるは、見る目も苦しく、いとわびし。さてもやは、存へ住むべき、また、時の間の烟ともなりなんとぞ、うち見るよりも思はるゝ。大かたは、家居にこそ事ざまは推しはからるれ。

 後徳大寺の大臣の寢殿に、鳶ゐさせじとて、縄を張られたりけるを、西行が見て、「鳶の居たらんは、何かは苦しかるべき。この殿の御心、さばかりにこそ」とて、その後は參らざりけると聞き侍るに、綾小路宮のおはします小坂殿の棟に、いつぞや繩を引かれたりしかば、かの例思ひ出でられ侍りしに、誠や、「烏のむれゐて池の蛙をとりければ、御覧じ悲しませ給ひてなん」と人の語りしこそ、さてはいみじくこそと覚えしか。

徳大寺にも、いかなる故か侍りけん。

 

検:第10段 第10段 家居のつきづきしく、あらまほしきこそ 家居のつきづきしくあらまほしきこそ